歴史の小箱
(第430号)役人の住宅団地の跡か?― 伊勢堰遺跡―(令和6年5月1日号)
歴史の小箱第426号「奈良の平城京に似た場所」で紹
介した安久にある箱根田遺跡(はこねだいせき)の北側には、梅名にかけて伊勢堰遺跡(いせせぎいせき)が隣接します。この遺跡は箱根田の上流域に当たりますので図1の1からも奈良~平安時代の溝跡(水路跡)が確認され、大変貴重な墨書土器(ぼくしょどき)2点が出土しました。
図1:伊勢堰遺跡の位置
ひとつは「大溝主」(おおみぞぬし/おおみぞあるじ)と書かれた土器です。まさに、この人工の水路が当時どう呼ばれていたかを証明すると同時に、現在の地域の人が呼ぶ「おおみぞ」と同じであることが判明しました。「○〇主」とありますので、溝を管理する役人の役職名のひとつではないかとも考えられています。
もうひとつは「黒栖(くろす)」で、人の名前と考えられます。名前だと判った理由は、平城京の発掘調査で出土した木簡(もっかん:木製の荷札)に納税者の名前として「黒栖」が記名されていたからです。同一時期の人物であれば、中央と地方を直接結びつける証拠の逸品(いっぴん)となります。
次に、表題の「役人の住宅団地の跡か?」については、図1の2の地点です。大溝の左岸に位置し、一本橋を渡って右岸の津(川の港)へ通勤していた役人の住宅団地(官舎)と予測しました。区画は比較的大きな溝(排 水溝)と小さな溝(地境:じざかい)および掘立柱(ほったてばしら)の柱穴列(ちゅうけつれつ)で丁寧に仕切られ、大きな溝の西側に通路と掘立柱の板塀(いたべい)が並行してあったものと考えられます。塀により各戸のプライバシーは確保されていたようです。
図2:2地点の全景
条里(じょうり)の末端域に暮らす役人の家は、現在の住宅団地のように一定の建物が同じように配置され、図3の区画の中央に竪穴住居(たてあなじゅうきょ)とその南側入口に隣接して掘立柱建物(倉庫)がありました。高床(たかゆか)倉庫の下の空間は屋外の作業スペースとして利用されていたと思われます。溝の内側で敷地面積を測ると、どの区画も6間×9間の54坪の長方形区画で、建物のない空き地は畑だったのでしょうか。畑と合わせて108坪で一戸です。
図3:住宅団地の概念図
奈良~平安時代の役人も縄文時代から営々と続く利便性の高い、竪穴住居に暮らしていたことがわかります。庶民の「板の間」での暮らしはまだまだ先のようです。
【広報みしま令和6年5月1日号掲載】