(第59号) ~三代将軍 家光の泊った~ 「御殿跡之図」 (平成4年5月1日号)
大判の和紙に、御殿を囲む石垣や松の森、敷地内の小社(稲荷社、山神社)、東海道と御殿川沿いの小道などが淡い彩色が施されて描かれています。
石垣に囲まれた御殿の敷地は南北に細長く、中央辺りで少々のくいちがいがあり、そこを境として奥まった南側部分が「御本丸」、街道に近い手前側が「二の御丸」であったことが記されています。石垣の切れた部分の2箇所には「大手」という書き込みもあって、そこが往時の出入り口であったことをしのばせます。
一見城郭を思わせる御殿の敷地総回りは、「御本丸東五十一間(92m)・西七十四間(133m)・南五十四間(97m)・北八十五間(153m)、二の御丸東七十三間(131m)西四十六間(83m)・南八十五間(153m)・北九十三間(167m)とあり、かなりの広さの敷地です。
さて、この御殿の主は江戸幕府三代将軍徳川家光だと伝えられます。元和9年(1623)、将軍宣下を受けた家光は上洛のため三島にも宿泊することとなり、これが機会となって幕府が東街道筋の数個所に将軍専用の御殿の築造をしたものであろうと考えられます。
その後、家光は2度上洛していますが、三島宿泊で御殿を使用したのは寛永11年、(1634)の時だけだったものと思われます。わずか2回だけの施設だったようです。
「御殿跡之図」は、文久2年(1862)、幕府御普請役の調べに対して三島宿役人が回答したものの控え図面らしく、図面裏側の付箋に記録が残っていました。
この御殿のあった場所は、御殿川西側で、現在の社会保険三島病院の辺りだと推測されます。今では御殿川の名前と御殿神社にその名残をとどめるだけとなってしまいました。
(広報みしま 平成4年5月1日号掲載記事)
石垣に囲まれた御殿の敷地は南北に細長く、中央辺りで少々のくいちがいがあり、そこを境として奥まった南側部分が「御本丸」、街道に近い手前側が「二の御丸」であったことが記されています。石垣の切れた部分の2箇所には「大手」という書き込みもあって、そこが往時の出入り口であったことをしのばせます。
一見城郭を思わせる御殿の敷地総回りは、「御本丸東五十一間(92m)・西七十四間(133m)・南五十四間(97m)・北八十五間(153m)、二の御丸東七十三間(131m)西四十六間(83m)・南八十五間(153m)・北九十三間(167m)とあり、かなりの広さの敷地です。
さて、この御殿の主は江戸幕府三代将軍徳川家光だと伝えられます。元和9年(1623)、将軍宣下を受けた家光は上洛のため三島にも宿泊することとなり、これが機会となって幕府が東街道筋の数個所に将軍専用の御殿の築造をしたものであろうと考えられます。
その後、家光は2度上洛していますが、三島宿泊で御殿を使用したのは寛永11年、(1634)の時だけだったものと思われます。わずか2回だけの施設だったようです。
「御殿跡之図」は、文久2年(1862)、幕府御普請役の調べに対して三島宿役人が回答したものの控え図面らしく、図面裏側の付箋に記録が残っていました。
この御殿のあった場所は、御殿川西側で、現在の社会保険三島病院の辺りだと推測されます。今では御殿川の名前と御殿神社にその名残をとどめるだけとなってしまいました。
(広報みしま 平成4年5月1日号掲載記事)