(第166号) ~三島と朝鮮半島の歴史(2)~ 朝鮮通信使と箱根・富士 (平成14年3月1日号)
前号は、江戸時代に李氏朝鮮から12回にわたり朝鮮通信使一行が来日し、その風俗が沿道の人々を驚かせると共に最新の学問を伝えていったことをお話しました。
では朝鮮通信使から見た日本の印象はどのようなものであったでしょうか。
通信使の記録によると、釜山(プサン)を出発した通信使一行約四百~五百人は六隻の船に分乗し、対馬・壱岐に滞在しながら赤間関(あかまがせき・山口県)に到着。ここから、瀬戸内海を寄航しながら西国大名の接待をうけ、筆語・詩文の交換を行います。尼崎・大坂で川御座船に乗り換え淀川をさかのぼり、京へ。大坂の賑わいに感嘆し、中国・朝鮮の典籍が数多く普及している点に注目しています。
学者と共に画家達の交流もさかんで、池大雅(南画家)は画員金有声(キムユソン)の画法に触れ、山水画の技法を尋ねています。
さて一行は琵琶湖沿いに北上し、中仙道から名古屋へ、東海道を江戸へ向かいました。興津(清水市)の清見寺は通信使との交流が深い寺で僧侶達と交流した書・画が多数残されています。原や三島からは富士山の全貌を見渡すことが出来、金仁謙は三島からの富士をたたえ記しています。 『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。
(略)優雅にして高大 雲の果てに届いている。』
さていよいよ箱根山越えにかかりますが、享保4年(1719)の記録を見ると、道程が「険にしてかつ俊、轎(かご)をかつぐ者は力をきわめて登り、たびたび人をかえては休息する。」と、登り道の大変さが記録に残されています。
やっと箱根峠まで登りつめ、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、誰もが皆、感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛しています。出発してから江戸到着まで約4ヶ月かかる長旅の中で、最も印象に残った光景の一つでしょう。
(広報みしま 平成14年3月1日号掲載記事)
では朝鮮通信使から見た日本の印象はどのようなものであったでしょうか。
通信使の記録によると、釜山(プサン)を出発した通信使一行約四百~五百人は六隻の船に分乗し、対馬・壱岐に滞在しながら赤間関(あかまがせき・山口県)に到着。ここから、瀬戸内海を寄航しながら西国大名の接待をうけ、筆語・詩文の交換を行います。尼崎・大坂で川御座船に乗り換え淀川をさかのぼり、京へ。大坂の賑わいに感嘆し、中国・朝鮮の典籍が数多く普及している点に注目しています。
学者と共に画家達の交流もさかんで、池大雅(南画家)は画員金有声(キムユソン)の画法に触れ、山水画の技法を尋ねています。
さて一行は琵琶湖沿いに北上し、中仙道から名古屋へ、東海道を江戸へ向かいました。興津(清水市)の清見寺は通信使との交流が深い寺で僧侶達と交流した書・画が多数残されています。原や三島からは富士山の全貌を見渡すことが出来、金仁謙は三島からの富士をたたえ記しています。 『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。
(略)優雅にして高大 雲の果てに届いている。』
さていよいよ箱根山越えにかかりますが、享保4年(1719)の記録を見ると、道程が「険にしてかつ俊、轎(かご)をかつぐ者は力をきわめて登り、たびたび人をかえては休息する。」と、登り道の大変さが記録に残されています。
やっと箱根峠まで登りつめ、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、誰もが皆、感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛しています。出発してから江戸到着まで約4ヶ月かかる長旅の中で、最も印象に残った光景の一つでしょう。
(広報みしま 平成14年3月1日号掲載記事)