(第160号) ~歴史ある三島暦師~ 「河合家」 (平成13年9月1日号)
今のように1年が365日、1時間が60分と、時間や曜日、各月の日数などの暦が定まったのはいつ頃からでしょうか。
日本では近代化の一環として明治6年(1883)正月から、主に西欧諸国で用いられていた現在の太陽暦と24時間新時刻法に変わりました。この頃から、のんびりしていた日本人の生活スタイルは、学校も汽車も工場も、時刻に正確なものとなっていくのです。
ではそれ以前の時間や暦はどのようなものだったのでしょうか。
日の出が「明け六つ」日没が「暮れ六つ」その間を6等分して時間を決めるため、季節により1時間が異なりました。月の満ち欠けで1ヶ月が定まるため、1ヶ月が29日であったり30日だったり、あるいは1年が13ヶ月の年もあり、毎年の暦は必需品でした。
この、月の運行を基にする太陽太陰暦の計算は、天文学と数学の高度な知識が必要です。古代より1年の暦を発行する事はその地域の時空間を支配することと同じで朝廷は国内の時・暦を一元的に支配していたのです。
ところが、鎌倉幕府が成立すると、幕府は武士のための独自の暦を作成することを望みました。
このようにして鎌倉幕府の後押しで中世の東国に広く普及していたのが『三島暦』です。
この『三島暦』を明治まで発行し続けたのが三嶋大社の東にある河合家(写真)でした。河合家の伝承では奈良時代宝亀10年(779)に伊豆三島へ移り住み、貞観年間(859~)から貞享年間(1684~)までは河合家で暦を編纂した、と伝えられています。
平安時代は不明ですが、鎌倉時代以降、東国武士の刷り暦として広い範囲で利用されたと推定されます。このため、京では他の刷り暦も「三島」と呼ばれ、全国にその名が知れ渡っていました。
五十数代続く河合家は江戸時代初期、幕府に暦を編纂して献上する重要な役割を担っていました。江戸時代に各地で地方暦が作られはじめても、三島は暦の故郷として知られ、多くの旅人がみやげものとして求めていたのです。
(広報みしま 平成13年9月1日号掲載記事)
日本では近代化の一環として明治6年(1883)正月から、主に西欧諸国で用いられていた現在の太陽暦と24時間新時刻法に変わりました。この頃から、のんびりしていた日本人の生活スタイルは、学校も汽車も工場も、時刻に正確なものとなっていくのです。
ではそれ以前の時間や暦はどのようなものだったのでしょうか。
日の出が「明け六つ」日没が「暮れ六つ」その間を6等分して時間を決めるため、季節により1時間が異なりました。月の満ち欠けで1ヶ月が定まるため、1ヶ月が29日であったり30日だったり、あるいは1年が13ヶ月の年もあり、毎年の暦は必需品でした。
この、月の運行を基にする太陽太陰暦の計算は、天文学と数学の高度な知識が必要です。古代より1年の暦を発行する事はその地域の時空間を支配することと同じで朝廷は国内の時・暦を一元的に支配していたのです。
ところが、鎌倉幕府が成立すると、幕府は武士のための独自の暦を作成することを望みました。
このようにして鎌倉幕府の後押しで中世の東国に広く普及していたのが『三島暦』です。
この『三島暦』を明治まで発行し続けたのが三嶋大社の東にある河合家(写真)でした。河合家の伝承では奈良時代宝亀10年(779)に伊豆三島へ移り住み、貞観年間(859~)から貞享年間(1684~)までは河合家で暦を編纂した、と伝えられています。
平安時代は不明ですが、鎌倉時代以降、東国武士の刷り暦として広い範囲で利用されたと推定されます。このため、京では他の刷り暦も「三島」と呼ばれ、全国にその名が知れ渡っていました。
五十数代続く河合家は江戸時代初期、幕府に暦を編纂して献上する重要な役割を担っていました。江戸時代に各地で地方暦が作られはじめても、三島は暦の故郷として知られ、多くの旅人がみやげものとして求めていたのです。
(広報みしま 平成13年9月1日号掲載記事)