(第154号) ~東海道の往来で賑わった~ 「三島宿」の復元模型 (平成13年3月1日号)
江戸時代東海道五十三次の中でも、最も賑わった宿場の一つが三島です。江戸日本橋より数えて11番目、箱根宿と沼津宿の間の宿場でした。
三島宿は江戸時代初期、新町橋から大中島(現、本町)まででしたが、1711年(正徳元年)西見付けであった広小路火除土手が境川東岸に運ばれ新しい見付けとなり、宿域が西へ広がり発展をとげます。
郷土資料館では、三島宿が制定された1601年(慶長6年)正月から平成13年は四〇〇周年である事を記念し、三島宿の復元模型を作製しました。江戸時代末期、天保年間(1830~40頃)を想定したものです。
新町橋から千貫樋まで宿全体を1/700の縮尺で復元、また特に宿の中心である世古本陣から問屋場までを1/250の縮尺で再現しています。当時の資料を基に、東海道筋の間口割など正確に復元することができました。
当時の宿は、東の新町橋から西の千貫樋まで十八町余(約2キロメートル)、宿の石高2632石余、石高から見ると東海道では4番目の大きな宿場でした。宿の施設では問屋場一(現、市役所中央町別館)、大名・公家・役人などが宿泊する本陣二、脇本陣三、一般の旅人が宿泊するが74軒、総家数1025軒、人口4048人もありました。
箱根の山越に1日かかるため、三島には多くの旅人が泊まり、旅館数が多かったのです。
この他、三島宿は南へ下田街道、北へ佐野街道(甲州道)が分かれる交通の分岐であり、江戸時代初期には伊豆を管理する代官所が置かれ、のちに三島陣屋となりますが、伊豆支配の要でした。宿の中央には、徳川三代将軍家光公が上洛のために築かせた旅館跡・御殿地がありました。
三島宿の北には富士山からの湧水が小浜池など何ヶ所も湧き出ていく筋もの流れとなり街道を横切っていました。古くから水の都として三島宿は知られていたのです。
(広報みしま 平成13年3月1日号掲載記事)
三島宿は江戸時代初期、新町橋から大中島(現、本町)まででしたが、1711年(正徳元年)西見付けであった広小路火除土手が境川東岸に運ばれ新しい見付けとなり、宿域が西へ広がり発展をとげます。
郷土資料館では、三島宿が制定された1601年(慶長6年)正月から平成13年は四〇〇周年である事を記念し、三島宿の復元模型を作製しました。江戸時代末期、天保年間(1830~40頃)を想定したものです。
新町橋から千貫樋まで宿全体を1/700の縮尺で復元、また特に宿の中心である世古本陣から問屋場までを1/250の縮尺で再現しています。当時の資料を基に、東海道筋の間口割など正確に復元することができました。
当時の宿は、東の新町橋から西の千貫樋まで十八町余(約2キロメートル)、宿の石高2632石余、石高から見ると東海道では4番目の大きな宿場でした。宿の施設では問屋場一(現、市役所中央町別館)、大名・公家・役人などが宿泊する本陣二、脇本陣三、一般の旅人が宿泊するが74軒、総家数1025軒、人口4048人もありました。
箱根の山越に1日かかるため、三島には多くの旅人が泊まり、旅館数が多かったのです。
この他、三島宿は南へ下田街道、北へ佐野街道(甲州道)が分かれる交通の分岐であり、江戸時代初期には伊豆を管理する代官所が置かれ、のちに三島陣屋となりますが、伊豆支配の要でした。宿の中央には、徳川三代将軍家光公が上洛のために築かせた旅館跡・御殿地がありました。
三島宿の北には富士山からの湧水が小浜池など何ヶ所も湧き出ていく筋もの流れとなり街道を横切っていました。古くから水の都として三島宿は知られていたのです。
(広報みしま 平成13年3月1日号掲載記事)