(第152号) ~浮世絵に描かれた美女~ 三島の「おせん」 (平成13年1月1日号)
お正月映画の定番だったフーテンの寅さんを演ずる故渥美清の口上に「三島」が出てくるのをご存知でしょうか。「一は万物の始まり‥‥三十三は女の大厄、サンで死んだが三島のおせん‥‥」という件です。伝統的な香具師【やし】(祭りで品物を売る人)の口上です。
この「三島のおせん」とはいったいどのような女性なのでしょう。
実は「おせん」は江戸時代末、浮世絵に描かれているのです。
江戸時代末に続々と出版された東海道ものの浮世絵の一つに「役者見立東海道五十三駅」シリーズがあり、役者絵に多くの作品を残した三代歌川豊国が描いています。この中の「三島おせん」の図は嘉永5年(1852)の出版で富士山と駕籠【かご】かきを背景とし、女形五代目瀬川菊之丞演ずる「おせん」が大きく描かれています。
歌舞伎で演ぜられる「おせん」とはどういう役なのか長年不明でしたが、最近江戸期に発行された浄瑠璃本「恋傳授文武陣立【こいでんじゅぶんぶのじんだて】」の中にある「五ツ目、三嶋のお仙段」から手がかりを得ることが出来ました。
この物語は鎌倉時代に設定され、北条時政に滅ぼされた伊東祐清【すけきよ】の子庄六(病持ち)と許嫁【いいなずけ】のお仙が母と共に三島の宿外れに暮らす家に、仇【かたき】の北条時政が宿泊、主家の恨みを晴らそうとするお仙は逆に時政の計略にはまり自害します。病が回復した庄六は北条の追討を誓う、という筋立てのものです。
記録によると寛政2年(1790)に大阪にて新浄瑠璃として初演され、美女のあだ討ちの悲劇は大衆に人気の演目だったらしく、この後関西を中心に上演されます。歌舞伎にも採りあげられ文政2年(1819)名古屋にて上演された「三島お仙」は、明治初年まで江戸・大阪・名古屋などで何回も上演された記録が残ります。
この「おせん」の物語が評判を呼び広く知られていたことが伺われ、役者絵に描かれたり、口上に使われたものでしょう。
明治以降、「お仙の段」の上演も少なくなり、忘れ去られてしまいました。
(参考『三嶋のおせんについて』 望月宏充、伊豆史談126号)
(広報みしま 平成13年1月1日号掲載記事)
この「三島のおせん」とはいったいどのような女性なのでしょう。
実は「おせん」は江戸時代末、浮世絵に描かれているのです。
江戸時代末に続々と出版された東海道ものの浮世絵の一つに「役者見立東海道五十三駅」シリーズがあり、役者絵に多くの作品を残した三代歌川豊国が描いています。この中の「三島おせん」の図は嘉永5年(1852)の出版で富士山と駕籠【かご】かきを背景とし、女形五代目瀬川菊之丞演ずる「おせん」が大きく描かれています。
歌舞伎で演ぜられる「おせん」とはどういう役なのか長年不明でしたが、最近江戸期に発行された浄瑠璃本「恋傳授文武陣立【こいでんじゅぶんぶのじんだて】」の中にある「五ツ目、三嶋のお仙段」から手がかりを得ることが出来ました。
この物語は鎌倉時代に設定され、北条時政に滅ぼされた伊東祐清【すけきよ】の子庄六(病持ち)と許嫁【いいなずけ】のお仙が母と共に三島の宿外れに暮らす家に、仇【かたき】の北条時政が宿泊、主家の恨みを晴らそうとするお仙は逆に時政の計略にはまり自害します。病が回復した庄六は北条の追討を誓う、という筋立てのものです。
記録によると寛政2年(1790)に大阪にて新浄瑠璃として初演され、美女のあだ討ちの悲劇は大衆に人気の演目だったらしく、この後関西を中心に上演されます。歌舞伎にも採りあげられ文政2年(1819)名古屋にて上演された「三島お仙」は、明治初年まで江戸・大阪・名古屋などで何回も上演された記録が残ります。
この「おせん」の物語が評判を呼び広く知られていたことが伺われ、役者絵に描かれたり、口上に使われたものでしょう。
明治以降、「お仙の段」の上演も少なくなり、忘れ去られてしまいました。
(参考『三嶋のおせんについて』 望月宏充、伊豆史談126号)
(広報みしま 平成13年1月1日号掲載記事)