(第126号) ~昔のムラが分かる~ 村明細帳 (平成10年11月1日号)
表紙に「天正十八寅年十月二十三日豆陽君澤郡本松本邑【むら】御縄打之水帳」と記された古文書があります。表題からは検地帳を思わせますが、内容は松本村(現在の三島市松本)の様子を記した「村明細帳【むらめいさいちょう】」となっています。天正18年(1590)という年号通りだと時代は戦国末期、三島市の歴史で言えば山中城の戦が終わった年ということになり、松本村の始まりの頃の貴重な記録でしょう。村明細帳は、地方により、時代によりいくつかの別称があります。広くは村鑑帳【むらかがみちょう】、そのほか、村鑑明細帳、村差出明細帳等々が知られますが、その内容や記録の方法は、ほぼ一律の決まりに基づいて作成されてきました。村明細帳の作成目的は、幕府や藩の役人が郷村支配・貢租役徴収などの参考資料にするためであり、村方に一定のひな形を提示して作成させたものです。したがって、これを請けた村の方では、利害を考慮して、多少の作為を加えて報告することなどもあったといいますが、そうした点を差し引いても昔の村を知るために、充分価値のある記録と言えるでしょう。
さて、内容は、田畑高とその等級別面積内訳・石盛高【いしもりだか】、用水、村域、田畑の作物、肥料、職業、寺社、土橋、廻米【かいまい】、江戸までの里程【りて】などの事細かいことがらに関してであり、村にあるものについては記し、無いものは「無御座候【ござなくそうろう】」と報告しています。
松本村は幕府領に属していましたから、江戸まで「廻米」(米を送ること)の方法は次のようです。原文は「駿州塩久津湊迄陸路弐里半余附送り舟積仕江戸相廻し申候」とあります。すなわち、現在の沼津市口野(狩野川放水路が海に出た地点)にあった港まで陸路で運び、そこで舟積みして江戸まで送っていました。
また、用水及び松本村の状況について、「君ヵ沢」という小川が用水であり、村は「水損場」(水による被害の多いところという意味)であると報告しています。この時代、村の戸数は31軒。
村明細帳から、はるか昔の松本村の様子を想像できます。
(広報みしま 平成10年11月1日号掲載記事)
さて、内容は、田畑高とその等級別面積内訳・石盛高【いしもりだか】、用水、村域、田畑の作物、肥料、職業、寺社、土橋、廻米【かいまい】、江戸までの里程【りて】などの事細かいことがらに関してであり、村にあるものについては記し、無いものは「無御座候【ござなくそうろう】」と報告しています。
松本村は幕府領に属していましたから、江戸まで「廻米」(米を送ること)の方法は次のようです。原文は「駿州塩久津湊迄陸路弐里半余附送り舟積仕江戸相廻し申候」とあります。すなわち、現在の沼津市口野(狩野川放水路が海に出た地点)にあった港まで陸路で運び、そこで舟積みして江戸まで送っていました。
また、用水及び松本村の状況について、「君ヵ沢」という小川が用水であり、村は「水損場」(水による被害の多いところという意味)であると報告しています。この時代、村の戸数は31軒。
村明細帳から、はるか昔の松本村の様子を想像できます。
(広報みしま 平成10年11月1日号掲載記事)