(第119号) ~復元成った~ 「本陣模型」 (平成10年4月1日号)
平成9年に開催した共同企画展「目いっぱい、腹いっぱい東海道」に展示するため作製した三島宿本陣「樋口家」の模型を紹介します。
模型の原図となった史料は、樋口家から寄贈された文書の中にあった「間取り図」(平面図)です。
これがいつ頃のものかという年号の記述はなく、細い線引きによる屋敷地、建物および各種の部屋の名称・畳数、施設が描かれていました。その規模と施設の内訳は「間口十九間一尺、奥行四十二間四尺、総坪数八百四十八坪、本家建坪三百二十坪、裏物置・土蔵そのほかとも六十三坪、中庭百六十五坪、明所地(空き地)三百七坪半、土蔵二ヵ所、物置五ヵ所、馬屋三ヵ所、湯殿四ヵ所、雪隠【せっちん】十一ヵ所」というもので、これらが実物の約100分の1の縮尺と思われる図面の中に収められています。
元来「間取り図」は「先触れ」でもって休泊を予約する諸侯に対して送付し、宿泊の部屋割り等を検討させるためのものでしたから、このようなおおまかな間取り平面図で用をなしたものです。
しかし、この図面では「復元模型」として建ち上がらせるためには充分な情報とはいえません。すなわち、柱の位置や畳の並べ方、襖・板戸・障子等の配置あるいは欄間の意匠、地面と床、床と床の高さの相違等々、原図面を眺めながら想像を働かせる点が多くあったからです。幸いに、古い建築に詳しい専門家の協力を得、ようやく完成したのが写真の「復元模型」です。
さて、三島宿の本陣は、亨保3年(1718)には樋口博左衛門、六太夫、弥太夫という三軒が名乗っていましたが、天保年間(1830)以降は弥太夫家が潰れ、二軒となっています。諸大名や公家、あるいは武家などを休伯させる宿場の重要な施設でしたから町の中央に位置し、大きな施設と建物を誇っていたものです。
(広報みしま 平成10年4月1日号掲載記事)
模型の原図となった史料は、樋口家から寄贈された文書の中にあった「間取り図」(平面図)です。
これがいつ頃のものかという年号の記述はなく、細い線引きによる屋敷地、建物および各種の部屋の名称・畳数、施設が描かれていました。その規模と施設の内訳は「間口十九間一尺、奥行四十二間四尺、総坪数八百四十八坪、本家建坪三百二十坪、裏物置・土蔵そのほかとも六十三坪、中庭百六十五坪、明所地(空き地)三百七坪半、土蔵二ヵ所、物置五ヵ所、馬屋三ヵ所、湯殿四ヵ所、雪隠【せっちん】十一ヵ所」というもので、これらが実物の約100分の1の縮尺と思われる図面の中に収められています。
元来「間取り図」は「先触れ」でもって休泊を予約する諸侯に対して送付し、宿泊の部屋割り等を検討させるためのものでしたから、このようなおおまかな間取り平面図で用をなしたものです。
しかし、この図面では「復元模型」として建ち上がらせるためには充分な情報とはいえません。すなわち、柱の位置や畳の並べ方、襖・板戸・障子等の配置あるいは欄間の意匠、地面と床、床と床の高さの相違等々、原図面を眺めながら想像を働かせる点が多くあったからです。幸いに、古い建築に詳しい専門家の協力を得、ようやく完成したのが写真の「復元模型」です。
さて、三島宿の本陣は、亨保3年(1718)には樋口博左衛門、六太夫、弥太夫という三軒が名乗っていましたが、天保年間(1830)以降は弥太夫家が潰れ、二軒となっています。諸大名や公家、あるいは武家などを休伯させる宿場の重要な施設でしたから町の中央に位置し、大きな施設と建物を誇っていたものです。
(広報みしま 平成10年4月1日号掲載記事)