(第117号) ~明治の子女教育の先駆け~ 薔薇女学校 (平成9年3月1日号)

女学校設立伺い書
 明治21年(1888年)の頃の日本は、まだまだ江戸時代の生活様式や気風が漂っていた時代です。その一方で、新首都東京からは近代化の波が押し寄せて、人々にもどことなく浮き立つような気分と、何を選択したものかという迷いもあったものでしょう。

 三島での一例に東海道線三島駅開設問題がありました。明治22年7月に東海道全線が開通しますが、三島町民は町内域での駅開設に反対し、その結果、現在の長泉町下土狩に「三島駅」が設置されるという、後悔を残す決断を下しています。

 さて、その前年に、三島には他に先駆けてキリスト教の女学校「薔薇【ばら】女学校」が開校しました。薔薇という名は開校に尽力したアメリカ人宣教師のジェームス・バラという人の名前に由来します。

 学校の建てられた場所は久保町(現中央町)。花島家の酒蔵が改造され、校舎に転じました。花島家は明治の初めには酒の醸造を生業としていました。当時の当主は花島兵右衛門【ひょうえもん】でした。彼には明治近代化の波を敏感に感じとる能力があったものと思います。たまたま出会ったアメリカ人宣教師の説教に耳を傾け、次第にキリスト教へと傾いて行きます。

 そんな兵右衛門が家業の醸造業を廃業してでも子女の教育にあたろうと思い立ち、酒蔵を校舎にして、教師陣を集め、女学校設立伺いを県知事関口隆吉宛に書いたのは、明治21年4月20日のことでした。

 伺い書の資料には、お雇い外国人「リゼー・バラ女史(米合衆国ニウヨルク州ニウヨルク府)、月給60円」という雇用申請書や、「薔薇女学校学科学期課程表」(英語・地理・歴史・動物・植物・修身・数学など15教科)の外、校舎見取り図などが添付されています。その結果、申請は受理され、開校しますが、4年後の25年には閉校の運命をたどります。まだ時が早すぎたのでしょうか。
 (広報みしま 平成9年3月1日号掲載記事)