(第116号) ~龍沢寺の名僧~ 玄峰老師の年賀状 (平成10年1月1日号)
「寿」と、墨跡も清々しく大書。その下に「九十一翁般若」とあり、「玄峰【げんぽう】」の印譜【いんぷ】、「御健康祈リマス」という添え書きにも優しい心配りを感じます。昭和31年丙申(1956)の、円通山龍澤寺の山本玄峰老師の年賀状です。
老師が亡くなったのは昭和36年6月、竹倉温泉の伯日荘で静養中のことで、96歳の大往生だったと伝えられます。老師を送る「般若斎」には日本の政界、財界をはじめ、地元三島の関係者など3000人が集まったといいます。
玄峰老師が生まれたのは慶應2年(1866)1月28日、紀伊国牟婁【むろ】郡・湯の峰温泉(和歌山県)です。青年の頃に目の病にかかり医師から失明の危険性があるとの宣告を受けます。四国八十八ヶ所の遍路を行おうと決心したのは、この病が動機だったと考えられます。 23歳のことでした。
四国遍路の途上、土佐の雪蹊【せつけい】寺という霊場で、太玄和尚にめぐり会い仏門に入ることを決心し、この頃に得度【とくど】して、玄峰と号し始めます。
三島の沢地・龍澤寺に入寺するのは大正4年(1915)のことで、老師50歳の時です。当時の龍澤寺はたいへん荒れていたそうですが、老師が寺で最初に行ったことは、不動堂を裏山から現在の場所に移転するなどの復興と整備の事業だったそうです。
ところで、大正から昭和初期の日本は、次第に暗い戦争時代へと向かいつつありました。そうした祈り、玄峰老師は常に変わらない、公平でかつ平和を願う姿勢を曲げなかったといわれます。
戦後、多くの政治家が、日本の復興のため、老師の真の通った意見を求めて龍澤寺に馳【は】せ参じています。その中には終戦時の鈴木貫太郎首相、その後の吉田茂、池田勇人両首相もいました。
年賀状の穏やかな祝いの「寿」の文字の中に、老師の精神が込められているようです。
(広報みしま 平成10年1月1日号掲載記事)
老師が亡くなったのは昭和36年6月、竹倉温泉の伯日荘で静養中のことで、96歳の大往生だったと伝えられます。老師を送る「般若斎」には日本の政界、財界をはじめ、地元三島の関係者など3000人が集まったといいます。
玄峰老師が生まれたのは慶應2年(1866)1月28日、紀伊国牟婁【むろ】郡・湯の峰温泉(和歌山県)です。青年の頃に目の病にかかり医師から失明の危険性があるとの宣告を受けます。四国八十八ヶ所の遍路を行おうと決心したのは、この病が動機だったと考えられます。 23歳のことでした。
四国遍路の途上、土佐の雪蹊【せつけい】寺という霊場で、太玄和尚にめぐり会い仏門に入ることを決心し、この頃に得度【とくど】して、玄峰と号し始めます。
三島の沢地・龍澤寺に入寺するのは大正4年(1915)のことで、老師50歳の時です。当時の龍澤寺はたいへん荒れていたそうですが、老師が寺で最初に行ったことは、不動堂を裏山から現在の場所に移転するなどの復興と整備の事業だったそうです。
ところで、大正から昭和初期の日本は、次第に暗い戦争時代へと向かいつつありました。そうした祈り、玄峰老師は常に変わらない、公平でかつ平和を願う姿勢を曲げなかったといわれます。
戦後、多くの政治家が、日本の復興のため、老師の真の通った意見を求めて龍澤寺に馳【は】せ参じています。その中には終戦時の鈴木貫太郎首相、その後の吉田茂、池田勇人両首相もいました。
年賀状の穏やかな祝いの「寿」の文字の中に、老師の精神が込められているようです。
(広報みしま 平成10年1月1日号掲載記事)