(第115号) ~接待の精神を継ぐ~ 茶釜 (平成9年1月1日号)

茶釜
 江戸末期の茶屋設立当初の精神を後世に受け継いだシンボル的資料と言われる「茶釜(ちゃがま)」があります。この茶釜は銅製の非常に大きなものです。胴回り(羽根部分)は175センチメートル、直径55センチメートル、高さ50センチメートルという堂々たる姿をしていて、周囲には次のような文字が並んでいます。

 「廣為道友鋳此器永施行平憩所之用 下総国香取郡長部村 八石性理【はちこくしょうり】教会所 明治十二年乙卯年七月 鋳工 東京深川 田中七右衛門」

 道行く友の為に茶釜を鋳造し永く施行平【せぎょうだいら】の憩い所に用いる、という鋳造の趣旨が記され、これを行った八石性理教会という署名と年号(1879)が読めます。

 さて、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と歌にも歌われた東海道の難所、箱根の西坂に接待所が設立されたのは文政7年(1824)のこと。江戸の呉服商の加勢屋與兵衛【かせやよへい】が、箱根越えで難儀をする人馬の為に、私財を投じて創設した「人馬施行小屋」が始まりでした。以来、幕末の安政元年(1854)まで、道行く旅人に無料で粥【かゆ】や飼い葉、焚【た】き火などの施しが続けられましたが、運営が成り立たず、やむをえず中断という事態に至っています。

 明治に入り、接待所と施行の精神を継承しようと、前記した茶釜と共に再びこの地に入ったのが、下総【しもうさ】・香取【かとり】郡を本拠とする八石性理教会でした。同会は江戸後期の農民指導者大原幽学【ゆうがく】(1797~1858)を師と仰ぎ、彼の性理学という教説を信奉する門弟たちによって成っていました。幽学の思想と接待所の存続の精神が、どこかで結びついての行動であったものでしょう。
その後、昭和時代まで「接待茶屋」は彼らの手で続けられました。
(広報みしま 平成9年1月1日号掲載記事)