(第111号) ~女性の旅と信仰~ 横道ご詠歌 (平成9年8月1日号)
横道【よこどう】は、東海道などの要道とは異なった名もない小さな脇道のことで、昔の人々が無事平穏な人生を全うすることを願って旅した巡礼道です。
平安時代、都の貴族の間では観音信仰が流行し、畿内の各地に祀【まつ】られた三十三の観音菩薩を巡る巡礼の旅が盛んに行われました。これが有名な「西国三十三所霊場」ですが、後世になって、地方ではこれを模倣した小規模な巡礼道が設定され、横道のような巡礼の旅が庶民の間でも行われるようになりました。
横道は各地にいくつものコースがありますが、今回取り上げたのは身近にありながら、忘れ去られようとしている伊豆と駿河を結ぶ横道です。「両国横道」とか、巡る国名ずばりの「駿豆【すんず】横道」という呼び方で近年まで親しまれてきました。特に盛んだったのは江戸時代で、路傍【ろぼう】の石像物の中に、巡礼の旅の成就を記念して建立した当時の「巡礼供養塔」が数多く見られます。
横道巡礼の旅の主人公は女性たちでした。忙しい農作業や家庭生活の中に苦労して見つけだした時間だったのでしょうが、旅は彼女たちに与えられた一生に一度の自由と開放の機会でもあったようです。数人から十人前後の「講【こう】」を組み、白い巡礼装束に身をかため、一向は横道を巡っています。
「両国横道」の旅の起点は三島の白滝観音堂。現在の白滝公園の地です。かつては千手観音が祀ってあったそうですが、明治時代に大中島(現在の広小路町)の常林寺に遷【うつ】し、以後は同寺が横道の一番札所となっています。二番札所は竹林寺(現在は法華寺)。コースは下田街道を下り修善寺を経由し、静浦に向かい駿河の国に入ります。最終の三十三番札所は霊山寺(清水市)です。
現在、各所の観音堂に、安永5年(1776)の三島講中の「ご詠歌【えいか】」の奉納額が残されていました。それは、どのような旅だったのでしょう。
(広報みしま 平成9年8月1日号掲載記事)
平安時代、都の貴族の間では観音信仰が流行し、畿内の各地に祀【まつ】られた三十三の観音菩薩を巡る巡礼の旅が盛んに行われました。これが有名な「西国三十三所霊場」ですが、後世になって、地方ではこれを模倣した小規模な巡礼道が設定され、横道のような巡礼の旅が庶民の間でも行われるようになりました。
横道は各地にいくつものコースがありますが、今回取り上げたのは身近にありながら、忘れ去られようとしている伊豆と駿河を結ぶ横道です。「両国横道」とか、巡る国名ずばりの「駿豆【すんず】横道」という呼び方で近年まで親しまれてきました。特に盛んだったのは江戸時代で、路傍【ろぼう】の石像物の中に、巡礼の旅の成就を記念して建立した当時の「巡礼供養塔」が数多く見られます。
横道巡礼の旅の主人公は女性たちでした。忙しい農作業や家庭生活の中に苦労して見つけだした時間だったのでしょうが、旅は彼女たちに与えられた一生に一度の自由と開放の機会でもあったようです。数人から十人前後の「講【こう】」を組み、白い巡礼装束に身をかため、一向は横道を巡っています。
「両国横道」の旅の起点は三島の白滝観音堂。現在の白滝公園の地です。かつては千手観音が祀ってあったそうですが、明治時代に大中島(現在の広小路町)の常林寺に遷【うつ】し、以後は同寺が横道の一番札所となっています。二番札所は竹林寺(現在は法華寺)。コースは下田街道を下り修善寺を経由し、静浦に向かい駿河の国に入ります。最終の三十三番札所は霊山寺(清水市)です。
現在、各所の観音堂に、安永5年(1776)の三島講中の「ご詠歌【えいか】」の奉納額が残されていました。それは、どのような旅だったのでしょう。
(広報みしま 平成9年8月1日号掲載記事)