(第103号) ~近代教育のあけぼの~ 「三島黌【こう】」の終了証書 (平成8年2月1日号)
「三島黌【みしまこう】」という学校を知っていましたか。
「三島黌」は明治5年の学制発布によって三島に初めて造られた官立の三島の小学校の名前です。
学校のあった場所は旧陣屋跡。現在三島役所が建っているところです。
江戸時代の中頃まで、ここには三島代官所があって、伊豆の政治の中心だったところから「陣屋跡【じんやあと】」と呼ばれていました。明治時代に入り、陣屋の役目が終わってからは、しばらく放置されていましたので官立の学校の土地に選ばれることになりました。明治8年のことです。当時の足柄県令柏木忠俊は、荒れ地となっている「陣屋跡」に目を付け、町の有力者を呼んで学校敷地とするように指示を出しました。これを受け、河邊喜右衛門、川口周助、三浦丈八郎、佐藤善蔵らが動き、明治9年には四十間四方、1560坪の土地の無償払い下げが認可を受けることが出来ました。
町の人々の熱心な協力体制もあって、西洋風校舎が竣工し、正式に官立三島学校が開校したのは明治12年8月15日のことです。校舎正面には、前年秋に揮毫をいただいておいた、太政大臣三条実美公の「三島黌」という立派な文字の校名額が掲げられたといいます。こうして、三島最初の官立三島学校は「三島黌」と称されることとなりました。
実は、三島には「三島黌」が開校する以前から町民の手で創設された学校が旧伝馬所跡(問屋場跡)にありました。現在三島市役所中央町別館の場所です。
それは「開心痒舎【かいしんしょうしゃ】」と呼ばれていました。これを起こしたのは旧本陣の主、世古六太夫などの三島の篤志家たちでした。校長及び講師には、伊豆古奈出身の武家吉原守拙と養子の呼我親子が招かれました。特に守拙の教育は優れたもので、多くの三島町民に敬愛されました。
それにしても、三島の時代を先取りした教育熱心さには驚かされます。校長吉原守拙は「三島黌」時代になっても引き続き校長として務め、三島の近代教育の発展に尽くしています。資料はその「三島黌」の終了証書です。
(広報みしま 平成8年2月1日号掲載記事)
「三島黌」は明治5年の学制発布によって三島に初めて造られた官立の三島の小学校の名前です。
学校のあった場所は旧陣屋跡。現在三島役所が建っているところです。
江戸時代の中頃まで、ここには三島代官所があって、伊豆の政治の中心だったところから「陣屋跡【じんやあと】」と呼ばれていました。明治時代に入り、陣屋の役目が終わってからは、しばらく放置されていましたので官立の学校の土地に選ばれることになりました。明治8年のことです。当時の足柄県令柏木忠俊は、荒れ地となっている「陣屋跡」に目を付け、町の有力者を呼んで学校敷地とするように指示を出しました。これを受け、河邊喜右衛門、川口周助、三浦丈八郎、佐藤善蔵らが動き、明治9年には四十間四方、1560坪の土地の無償払い下げが認可を受けることが出来ました。
町の人々の熱心な協力体制もあって、西洋風校舎が竣工し、正式に官立三島学校が開校したのは明治12年8月15日のことです。校舎正面には、前年秋に揮毫をいただいておいた、太政大臣三条実美公の「三島黌」という立派な文字の校名額が掲げられたといいます。こうして、三島最初の官立三島学校は「三島黌」と称されることとなりました。
実は、三島には「三島黌」が開校する以前から町民の手で創設された学校が旧伝馬所跡(問屋場跡)にありました。現在三島市役所中央町別館の場所です。
それは「開心痒舎【かいしんしょうしゃ】」と呼ばれていました。これを起こしたのは旧本陣の主、世古六太夫などの三島の篤志家たちでした。校長及び講師には、伊豆古奈出身の武家吉原守拙と養子の呼我親子が招かれました。特に守拙の教育は優れたもので、多くの三島町民に敬愛されました。
それにしても、三島の時代を先取りした教育熱心さには驚かされます。校長吉原守拙は「三島黌」時代になっても引き続き校長として務め、三島の近代教育の発展に尽くしています。資料はその「三島黌」の終了証書です。
(広報みしま 平成8年2月1日号掲載記事)