(第100号) ~東海道歌日記~ 香川景樹の『中空【なかぞら】の日記』 (平成7年11月1日号)
江戸後期の歌人、香川景樹【かがわかげき】を知っていますか。
景樹は、明和5年(1768年)因幡国鳥取藩士の荒井小三次の二男として生まれ、幼くしてよく文を読み、書を写し、7歳の年には師について和歌を学び始めたと伝えられます。26歳で京都に出、梅月堂香川景柄の養子になります。後に同家とは離縁しますが、姓は香川を名のり続け、この頃より(30歳前半)歌人としての活躍が始まります。
景樹60歳の年には頼山陽も門下に入り、翌年には代表歌集『桂園一枝』が書き上げられます。名声いよいよ高まり、多くの門下が集まり、当時の和歌世界の主流、桂園派を形成します。天保14年(1843年)、景樹は76歳の生涯を閉じましたが、歌風は桂園派の門人たちに引き継がれ、一世を風靡します。また、明治の御歌所和歌の源流も、桂園の歌風にあったことからも、影響力の大きさが分かります。
香川景樹の著作の一冊『中空の日記』が、今回の主題です。
『中空の日記』は、天保3年(1832年)に、京都寺町通三条上ルの、本屋河南儀兵衛から発行されました。内容は、文政元年(1818年)秋の景樹の旅日記です。
文政元年の春頃から江戸に滞在していた景樹でしたが、秋になり伊勢まで上がることとなり、尾張の国、津島を目指しての旅に出かけたのでした。旅立ちは「神無月23日」のこと。江戸目白台の「愛松軒」を出、別れの気持ちを次ぎのように詠じています。
「立出るわが袖たにも知らぬかなこころのうちに落るなみだは」
東海道を進み、三島の宿に到着したのは11月7日のこと。景樹は、三島の社(現在の三嶋大社)に詣で、世にその名の知れた三島暦を買い求め、その感想を述べ、次のような三首を詠じています。
「散かかるいてふの一葉袖にうけてやがへもぬさと手むけまつらん」
「ひとの親のここゐの杜【もり】の木がらしは
身をわけて吹くここち社【これ】すれ」
「はかなしや五十あまりの年月も夢と三島の暦なりけり」
こうして、景樹の東海道歌日記が津島で終わりを迎えたのは、文政元年師走一日のことでした。
(広報みしま 平成7年11月1日号掲載記事)
景樹は、明和5年(1768年)因幡国鳥取藩士の荒井小三次の二男として生まれ、幼くしてよく文を読み、書を写し、7歳の年には師について和歌を学び始めたと伝えられます。26歳で京都に出、梅月堂香川景柄の養子になります。後に同家とは離縁しますが、姓は香川を名のり続け、この頃より(30歳前半)歌人としての活躍が始まります。
景樹60歳の年には頼山陽も門下に入り、翌年には代表歌集『桂園一枝』が書き上げられます。名声いよいよ高まり、多くの門下が集まり、当時の和歌世界の主流、桂園派を形成します。天保14年(1843年)、景樹は76歳の生涯を閉じましたが、歌風は桂園派の門人たちに引き継がれ、一世を風靡します。また、明治の御歌所和歌の源流も、桂園の歌風にあったことからも、影響力の大きさが分かります。
香川景樹の著作の一冊『中空の日記』が、今回の主題です。
『中空の日記』は、天保3年(1832年)に、京都寺町通三条上ルの、本屋河南儀兵衛から発行されました。内容は、文政元年(1818年)秋の景樹の旅日記です。
文政元年の春頃から江戸に滞在していた景樹でしたが、秋になり伊勢まで上がることとなり、尾張の国、津島を目指しての旅に出かけたのでした。旅立ちは「神無月23日」のこと。江戸目白台の「愛松軒」を出、別れの気持ちを次ぎのように詠じています。
「立出るわが袖たにも知らぬかなこころのうちに落るなみだは」
東海道を進み、三島の宿に到着したのは11月7日のこと。景樹は、三島の社(現在の三嶋大社)に詣で、世にその名の知れた三島暦を買い求め、その感想を述べ、次のような三首を詠じています。
「散かかるいてふの一葉袖にうけてやがへもぬさと手むけまつらん」
「ひとの親のここゐの杜【もり】の木がらしは
身をわけて吹くここち社【これ】すれ」
「はかなしや五十あまりの年月も夢と三島の暦なりけり」
こうして、景樹の東海道歌日記が津島で終わりを迎えたのは、文政元年師走一日のことでした。
(広報みしま 平成7年11月1日号掲載記事)