山中城跡環境整備事業
1.山中城跡の概要
「史跡山中城跡」は、三島市街地の東方、静岡県と神奈川県を画するように聳える箱根山の西山麓、標高580メートルに位置する戦国時代末期の城郭である。この山中城は、小田原に本拠を持ち関東地方をその領土とした後北条氏によって築城された国境警備の城、いわゆる「境目の城」であった。したがって領国支配のための城郭に比べ、極めて軍事的色彩の強い城である。山中城は、箱根山外輪山から西方に伸びる丘陵の尾根を利用して築城されており、V字状渓谷を発達させた2つの河川に挟まれている。このため城の南北は急崖をなし、東西の尾根は数多くの堀によって分断され防御されている。その範囲は、東西1.7キロメートル、南北2.6キロメートルに及び、面積は約20万平方メートルと推定されている。山中城跡からは駿河湾、三島・沼津平野など伊豆地方北部から駿河地方一帯が眺望され、小田原、三島のほぼ中間で軍事・交通の要衝の地に位置している。
この山中城の創築年代は明らかではない。従来、永禄12年(1569)7月2日付「信玄書状写」に武田軍の山中城、韮山城攻撃の事がみえることから、駿河・甲斐・相模の三国同盟が崩壊し、軍事的緊張が高まった永禄10年頃、小田原城の西方防御の拠点をなす境目の城として、あるいは小田原と韮山・足柄などの支城群を連携する繋ぎの城として、さらには甲斐・駿河侵攻の兵站基地として築城されたものと考えられており、箱根道を城内に取り込んでいることから、関所的な機能をも有していたと理解されている。
山中城関係文書によれば、元亀2年、いわゆる「相甲一和」が成立し山中城の戦略的意義は薄らぐが、真田氏との名胡桃城をめぐる抗争に端を発し、豊臣秀吉との確執が表面化、その決定的な対決が現実的課題となった天正15年(1587)頃から、伊豆、相模地域に「北条家人足催促朱印状」を発給し農民を徴集、山中城の大修築工事を開始した事が知られている。
天正17年には城の南西に位置する岱崎の地を出丸として城内に取り込み、城郭の増強を図ったが、戦いには間に合わず、天正18年3月29日の開戦となった。その激しい攻防の状況は中村一氏の配下で、山中城の一番乗りを果たしたとされる渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」によって詳細を知ることが出来る。7万余人に達する圧倒的な攻撃力を有する豊臣軍の前に、城主、松田康長以下4千人の北条軍は短時間で壊滅し、落城、以後廃城となった。
2.史跡指定と環境整備
昭和5年、山中城跡の戦いで戦死した豊臣群の武将一柳直末の後裔で、子爵であった一柳貞吉氏によって、山中城跡の史跡指定が計画された。山中新田在住の市川近太郎が山中城跡の現地測量図を作成、「曲輪の保存が良く、後北条氏の縄張りが良好に見られる城」として、全国的にも極めて早い時期である昭和9年、城郭の主要部分98,183.00平方メートルが史跡に指定された。
昭和44年、文化庁による史跡調査事業、昭和45年の建設省による国道一号線山中バイパス建設計画案の提示を契機とし、三島市教育委員会では山中城跡の環境整備事業を決定、昭和47年より山中城跡の環境整備事業に着手され、以来、平成5年までの26年間にわたって史跡指定地の公有化、発掘調査と環境整備が継続的に実施され、平成5年をもって史跡山中城跡におけるすべて環境整備事業を終了した。
●環境整備事業の経過
●史跡山中城跡調査専門委員会
●環境整備
山中城跡の環境整備は、曲輪を主とした復元区域、堀・帯曲輪を主とした現状保存区域、便益施設設置区域に分けられ、修景表示を主体にとした整備で、コンクリート等人工的なものの使用は極力避けた。
土塁や堀を保存するためには、遺構面を風化させず、冬季の霜柱から守るため、盛土による被履の上、張芝で保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるようにした。曲輪内の建物跡は、柱位置を潅木による表示、あるいは藤棚の設置によって表示し、兵糧庫は新材による礎石を補って復元し柱位置を示した。また、復元建物として、本丸西堀、北堀の架橋、二ノ丸西堀の架橋を下部構造に疑木を使用した木製で復元したほか、戦国時代の建物を模した休憩舎を3か所設置した。
昭和44年、文化庁による史跡調査事業、昭和45年の建設省による国道一号線山中バイパス建設計画案の提示を契機とし、三島市教育委員会では山中城跡の環境整備事業を決定、昭和47年より山中城跡の環境整備事業に着手され、以来、平成5年までの26年間にわたって史跡指定地の公有化、発掘調査と環境整備が継続的に実施され、平成5年をもって史跡山中城跡におけるすべて環境整備事業を終了した。
●環境整備事業の経過
昭和9年1月22日 | 史跡指定 98,183.00平方メートル |
昭和44年5月 | 文化庁の史跡調査、環境整備計画の検討開始 |
昭和46年3月 | 文化庁調査官の現地視察 |
5月 | 環境整備基本方針案の提出 |
12月 | 文化庁・県・市3者により発掘調査についての協議 |
昭和47年2月 | 史跡山中城跡調査専門委員会の設置 |
9月 | 用地測量調査の開始 |
11月 | 土地買い上げ事業の開始 |
昭和48年7月 | 第1次発掘調査 |
昭和49年 | 山中城跡環境整備基本構想の策定 |
昭和50年2月 | 第1期環境整備 |
昭和53年3月20日 | 追加指定 19,673.91平方メートル 指定面積合計 117,856.91平方メートル |
昭和56年4月 | 市制施行40周年記念事業として、山中城跡史跡公園を開園 |
昭和58年 | 発掘調査報告書「史跡山中城跡」の刊行 |
昭和60・61年 | 北条丸(二ノ丸)、北ノ丸及び周辺の土地買収 |
平成5年 | 環境整備事業終了 |
●史跡山中城跡調査専門委員会
宮脇 泰一 | 日本大学教授 顧問 |
八幡 一郎 | 上智大学教授 顧問 |
斎藤 宏 | 三島市文化財保護審議委員長 発掘調査 |
山内 昭二 | 三島市文化財保護審議委員 発掘調査 |
高杉 洋二郎 | 日本大学文理学部講師 発掘調査 |
高橋 省吾 | 三島市文化財保護審議委員 文献資料調査 |
友野 博 | 三島市文化財保護審議委員 文献資料調査 |
高島 勝 | 三島市文化財保護審議委員 自然環境調査 |
●環境整備
山中城跡の環境整備は、曲輪を主とした復元区域、堀・帯曲輪を主とした現状保存区域、便益施設設置区域に分けられ、修景表示を主体にとした整備で、コンクリート等人工的なものの使用は極力避けた。
土塁や堀を保存するためには、遺構面を風化させず、冬季の霜柱から守るため、盛土による被履の上、張芝で保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるようにした。曲輪内の建物跡は、柱位置を潅木による表示、あるいは藤棚の設置によって表示し、兵糧庫は新材による礎石を補って復元し柱位置を示した。また、復元建物として、本丸西堀、北堀の架橋、二ノ丸西堀の架橋を下部構造に疑木を使用した木製で復元したほか、戦国時代の建物を模した休憩舎を3か所設置した。
●環境整備の施工( )内数値は設計委託料(内数)
年度 | 工事 | 施工範囲 | 面積(平方メートル) | 金額 (円) |
49 | 第1期 | 西櫓・西木戸口、西櫓堀(5・6号) | 850 | 2,000,000 |
50 | 第2期 | 西櫓堀(4.7.8号)、西木戸口 | 800 | 4,000,000 ( 280,000) |
51 | 第3期 | 無名曲輪・西の丸全域・西の丸見張台、西櫓堀(3.9号)・西の丸堀(障子堀6区画)・園路の一部 | 4,600 | 21,000,000 (1,000,000) |
52 | 第4期 | 本丸、本丸堀、箱井戸、溜池、北の丸(西半分)、西の丸堀(全域)、西櫓堀(1.2号)、園路の一部 | 8,000 | 25,000,000 (1,250,000) |
53 | 第5期 | 天守櫓、兵糧庫、田尻の池、三の丸堀、南櫓、岱崎出丸御馬場、園路、休憩所設置 | 12,260 | 26,700,000 (900,000) |
54 | 第6期 | 岱崎出丸全域、休憩所設置、園路 | 16,130 | 25,480,000 (1,100,000) |
55 | 第7期 | 西の丸北平坦部、休憩所設置 | 1,000 | 5,040,000 (100,000) |
56 | 第8期 | 岱崎出丸西斜面 | 2,000 | 14,085,000 (250,000) |
57 | 第9期 | 西の丸北斜面伐開、三の丸武将の墓周辺 | 4,380 | 5,000,000 |
58 | 第10期 | 西の丸北斜面伐開、発掘調査報告書作成 | 4,638 | 5,000,000 |
59 | 第11期 | 西の丸北斜面伐開、発掘調査報告書作成 | 1,380 | 3,000,000 |
63 | 北条丸全域測量・設計委託実施 | 3,450,000 (3,450,000) | ||
元 | 第12期 | 本丸西堀、架橋、北条丸曲輪、 土塁、櫓台跡 | 3,246 | 14,291,250 |
2 | 第13期 | 北条丸西堀、曲輪、土塁、元西櫓架橋 | 3,544 | 20,600,000 |
3 | 第14期 | 北条丸進入路、箱井戸 | 1,981 | 16,122,000 |
4 | 第15期 | 北の丸(東半分)北の丸周辺の測量・伐開 | 10,670 | 16,416,140 (2,317,500) |
合計 | 75,479 | 207,184,390 |
●土地買い上げ
●環境整備事業経費の合計
※公有化率 約90% ※買収総面積107,499.60平方メートル(指定地内83,540.50平方メートル・指定地外23,959.10平方メートル)
年度 | 土地(平方メートル) | 購入費(円) | 補償費(円) | 合計(円) |
47 | 11,998.64 | 28,676,000 | 1,400,000 | 30,076,000 |
48 | 12,715.06 | 28,600,000 | 1,400,000 | 30,000,000 |
49 | 12,615.70 | 43,201,000 | 331,000 | 43,532,000 |
50 | 9,809.14 | 34,838,000 | -- | 34,838,000 |
51 | 7,565.53 | 30,000,000 | -- | 30,000,000 |
53 | 14,299.86 | 30,000,000 | -- | 30,000,000 |
60 | 5,285.00 | 28,944,000 | 3,756,000 | 32,700,000 |
61 | 9,251.57 | 49,975,000 | 7,048,000 | 57,023,000 |
合計 | 83,540.50 | 274,234,000 | 18,935,000 | 288,169,000 |
●環境整備事業経費の合計
項目 | 金額(円) |
土地買収費 | 288,169,000 |
発掘調査費 | 67,576,267 |
復元整備工事 | 206,783,720 |
合計 | 562,529,000 |
※公有化率 約90% ※買収総面積107,499.60平方メートル(指定地内83,540.50平方メートル・指定地外23,959.10平方メートル)
3.発掘調査の成果
●縄張り
城郭は放射状に分岐した尾根を利用し、主尾根の中央に本丸を設置、これを中心として北方尾根上に北ノ丸、ラオシバ、西方尾根上には、北条丸、元西櫓、西ノ丸、西櫓、西木戸と曲輪を連ね、南西尾根上に、段階状に三ノ丸、南櫓、岱崎出丸を配置しており、全体としては南西方向に開くU字状の連郭式城郭である。その曲輪はいずれも尾根を障子堀と呼ばれる後北条氏独特の手法による堀により掘り切り、独立した曲輪を形成することを基本としている。さらに、分断した尾根の側縁に障子堀を配置し、比高二重土塁と呼ばれる帯曲輪を曲輪の周囲を取り囲むように配置し、二重の防衛ラインを構築している。
●建物
山中城の遺構、特に曲輪内に存在が想定される建物は、戦後の開墾と根菜類の栽培に伴う天地返しが実施された結果、ローム層のかなりの深さまでを消失しておりほとんど確認されていない。建物跡が検出されたのは、兵糧庫で4間×4間の礎石建物一棟と、西櫓で掘立柱建物一棟、元西櫓の礎石建物一棟のわずか3棟である。このほか北ノ丸で門と考えられる掘立柱建物跡が平石の階段を伴って検出されている。また、西ノ丸を主として多種の形態・規模を有する土坑が多数検出されたが、出土遺物も少なくその機能を推定し得るものはほとんど存在しない。一方、曲輪をめぐる土塁のコーナーには一隅を拡張し櫓台を構築する手法が顕著である。櫓そのものの構造は不明ながら、いずれも虎口に近接する位置に設置されており、強固な防備施設となっている。
●土塁
堀の掘削土は、曲輪内の平坦化と土塁の構築に使用されている。山中城の土塁は敵の攻撃が想定される方向を正面に曲輪の三方を囲むコの字状の配置を基本としている。本丸北側、厩にみられる大土塁は基底幅15メートル、高さ4.5メートルの大きなものであり、通常規模の土塁でも高さ1.8メートル程度、法面の勾配はおおむね58度である。西櫓、本丸の土塁上では一定間隔で柱穴が検出されており板塀の存在が推定される。
●堀
山中城を最も特色付ける遺構であり調査の大きな成果の一つに、障子堀と呼ばれる堀の実態がはじめて明らかにされたことがあげられる。江戸時代の軍学書には、「畝堀」あるいは「堀障子」の名称がみられ、それらは空堀の底に畝を残し敵兵の行動を阻害するものといわれてきたが、山中城本丸堀、西櫓堀、西ノ丸堀、出丸の堀等の調査によって、その形態が詳細に明らかになった。畝堀は西櫓堀にその典型がみられ、そこでは空堀のなかに高さ1.8メートル前後の土手状の畝を障壁として掘り残し、空堀全体を10区画に区分していた。一区画の大きさは、上面で8~9メートル、堀底で幅2メートル、長さ5メートル前後であり、法面の傾斜はおおむね55度の急斜なものであった。仮に堀底へ落下した場合、この畝を乗り越えての脱出は到底不可能である。堀そのものの深さも9メートル以上であり、しかもローム層の平滑な斜面は、素手でよじのぼることを困難にしている。まさに蟻地獄そのものの様相を呈するであろう。
障子堀は西ノ丸堀にその典型がみられる。畝堀同様に堀底に畝を掘り残すのであるが、この複数列が障子堀である。堀の中央部に幅の広い中央畝を掘り残し、この中央畝から両側に向かって、直角に畝を掘り残している。直角にのびる畝は交互にのび、区画としては半分づつずれるように構築されている。したがって、障子の桟とはやや趣が異なっている。各区画の長さは8~9メートルで、畝堀の数値と同様である。これら区画内の一部は、地下水のため水堀となった区画もあり、建築部材など重要な遺物の出土があった。
●架橋
独立した曲輪を連絡するためには堀の一部を掘り残した土橋と木製架橋が存在した。西ノ丸、西櫓には土橋が、本丸北堀、北条丸西堀には4本柱の柱穴を持つ橋脚台が検出され木製架橋の存在が実証された。一方、本丸西堀では土橋の一部が切断されており、両者複合形態も存在したようである。前出「渡辺水庵覚書」には「三ノ丸と二ノ丸間に水堀相見へ、堀の上十間余りの欄干橋有之候」とあり、このことを理由に欄干の付いた立派な橋が存在したと考えるのは調査実施者のひいき目であろうか。
●出土遺物
遺物の出土は調査面積に比較し極めて数少ない。このことは本城が地域を領治する城郭とは異なり、国境警備の城であり、臨戦体制のみに人員が増強される軍事基地としての性格の強かったことを意味している。また、発掘調査の地点が戦闘的な曲輪を中心としており、恒常的な居住区とみられる二ノ丸、三ノ丸の調査が進行していないことにも起因するものと考えられる。曲輪の中では西ノ丸及び兵糧庫から生活遺物が比較的多く出土しており、居住空間が存在したことが明らかにされている。一方、西櫓、出丸といった地点では武器・武具の出土が顕著であり、曲輪の性格を示すものとして注目される。
出土した陶磁器には、舶載品、国内産のものがあるが、国内産では大窯期の瀬戸・美濃製品は当然の事として、初山、志戸呂窯といった静岡在地の製品の出土が目立っている。こうした中国陶磁器、瀬戸・美濃施釉陶器、静岡地元窯製品そしてかわらけのセットは後北条氏の城郭出土遺物には普遍的にみられるようであり、一つの大きな特徴であろう。これらの出土遺物には廃城後、山中宿が成立する17世紀中葉までの間、空白期がみられ、しかも本城跡の廃城年が明確なことから出土遺物は少ないものの編年研究には良好な資料と言える。
武器・武具の出土もまた多くはないが、甲冑をはじめ基本的なセットは揃っている。多くの遺物に二次的な焼成が看取され、戦後処理が行われたことが明らかである。また、皮革を素材とし漆塗り処理を施したものも多く見られ、当時の甲冑が極めて軽快な装備であったことが知られる。西櫓、北条丸の土塁上には人頭大の礫が多数集石され、また堀底からの出土も顕著であったため、これらの礫は石つぶてと考えられた。一方、堀底からは多数の鉄砲玉と大筒玉が出土していることから、火縄銃はもとより大筒までも保持されていたことが明らかで、こうした新旧の防衛装備が共存し、機能したことが示されたことは重要であり、当時の戦闘システムを考える上でも大変重要であろう。
山中城は先にもふれたように戦後の開墾により曲輪内部が破壊されていることから明確な建造物を推定しうるものは少ない。しかし、西ノ丸西堀、北条丸西堀では障子堀が偶然にも地下水脈を切っており、部分的に水堀を形成した区画が存在した。この区画では柱をはじめとする建築部材が少なからず出土しており、山中城の建造物を推定するうえで貴重な資料となった。また、小径木を使用した柵の部材、これを作った際の削り掛けや処理した小枝までも出土し、臨戦時におけるあわただしさがうかがえるような資料も出土している。
城郭は放射状に分岐した尾根を利用し、主尾根の中央に本丸を設置、これを中心として北方尾根上に北ノ丸、ラオシバ、西方尾根上には、北条丸、元西櫓、西ノ丸、西櫓、西木戸と曲輪を連ね、南西尾根上に、段階状に三ノ丸、南櫓、岱崎出丸を配置しており、全体としては南西方向に開くU字状の連郭式城郭である。その曲輪はいずれも尾根を障子堀と呼ばれる後北条氏独特の手法による堀により掘り切り、独立した曲輪を形成することを基本としている。さらに、分断した尾根の側縁に障子堀を配置し、比高二重土塁と呼ばれる帯曲輪を曲輪の周囲を取り囲むように配置し、二重の防衛ラインを構築している。
●建物
山中城の遺構、特に曲輪内に存在が想定される建物は、戦後の開墾と根菜類の栽培に伴う天地返しが実施された結果、ローム層のかなりの深さまでを消失しておりほとんど確認されていない。建物跡が検出されたのは、兵糧庫で4間×4間の礎石建物一棟と、西櫓で掘立柱建物一棟、元西櫓の礎石建物一棟のわずか3棟である。このほか北ノ丸で門と考えられる掘立柱建物跡が平石の階段を伴って検出されている。また、西ノ丸を主として多種の形態・規模を有する土坑が多数検出されたが、出土遺物も少なくその機能を推定し得るものはほとんど存在しない。一方、曲輪をめぐる土塁のコーナーには一隅を拡張し櫓台を構築する手法が顕著である。櫓そのものの構造は不明ながら、いずれも虎口に近接する位置に設置されており、強固な防備施設となっている。
●土塁
堀の掘削土は、曲輪内の平坦化と土塁の構築に使用されている。山中城の土塁は敵の攻撃が想定される方向を正面に曲輪の三方を囲むコの字状の配置を基本としている。本丸北側、厩にみられる大土塁は基底幅15メートル、高さ4.5メートルの大きなものであり、通常規模の土塁でも高さ1.8メートル程度、法面の勾配はおおむね58度である。西櫓、本丸の土塁上では一定間隔で柱穴が検出されており板塀の存在が推定される。
●堀
山中城を最も特色付ける遺構であり調査の大きな成果の一つに、障子堀と呼ばれる堀の実態がはじめて明らかにされたことがあげられる。江戸時代の軍学書には、「畝堀」あるいは「堀障子」の名称がみられ、それらは空堀の底に畝を残し敵兵の行動を阻害するものといわれてきたが、山中城本丸堀、西櫓堀、西ノ丸堀、出丸の堀等の調査によって、その形態が詳細に明らかになった。畝堀は西櫓堀にその典型がみられ、そこでは空堀のなかに高さ1.8メートル前後の土手状の畝を障壁として掘り残し、空堀全体を10区画に区分していた。一区画の大きさは、上面で8~9メートル、堀底で幅2メートル、長さ5メートル前後であり、法面の傾斜はおおむね55度の急斜なものであった。仮に堀底へ落下した場合、この畝を乗り越えての脱出は到底不可能である。堀そのものの深さも9メートル以上であり、しかもローム層の平滑な斜面は、素手でよじのぼることを困難にしている。まさに蟻地獄そのものの様相を呈するであろう。
障子堀は西ノ丸堀にその典型がみられる。畝堀同様に堀底に畝を掘り残すのであるが、この複数列が障子堀である。堀の中央部に幅の広い中央畝を掘り残し、この中央畝から両側に向かって、直角に畝を掘り残している。直角にのびる畝は交互にのび、区画としては半分づつずれるように構築されている。したがって、障子の桟とはやや趣が異なっている。各区画の長さは8~9メートルで、畝堀の数値と同様である。これら区画内の一部は、地下水のため水堀となった区画もあり、建築部材など重要な遺物の出土があった。
●架橋
独立した曲輪を連絡するためには堀の一部を掘り残した土橋と木製架橋が存在した。西ノ丸、西櫓には土橋が、本丸北堀、北条丸西堀には4本柱の柱穴を持つ橋脚台が検出され木製架橋の存在が実証された。一方、本丸西堀では土橋の一部が切断されており、両者複合形態も存在したようである。前出「渡辺水庵覚書」には「三ノ丸と二ノ丸間に水堀相見へ、堀の上十間余りの欄干橋有之候」とあり、このことを理由に欄干の付いた立派な橋が存在したと考えるのは調査実施者のひいき目であろうか。
●出土遺物
遺物の出土は調査面積に比較し極めて数少ない。このことは本城が地域を領治する城郭とは異なり、国境警備の城であり、臨戦体制のみに人員が増強される軍事基地としての性格の強かったことを意味している。また、発掘調査の地点が戦闘的な曲輪を中心としており、恒常的な居住区とみられる二ノ丸、三ノ丸の調査が進行していないことにも起因するものと考えられる。曲輪の中では西ノ丸及び兵糧庫から生活遺物が比較的多く出土しており、居住空間が存在したことが明らかにされている。一方、西櫓、出丸といった地点では武器・武具の出土が顕著であり、曲輪の性格を示すものとして注目される。
出土した陶磁器には、舶載品、国内産のものがあるが、国内産では大窯期の瀬戸・美濃製品は当然の事として、初山、志戸呂窯といった静岡在地の製品の出土が目立っている。こうした中国陶磁器、瀬戸・美濃施釉陶器、静岡地元窯製品そしてかわらけのセットは後北条氏の城郭出土遺物には普遍的にみられるようであり、一つの大きな特徴であろう。これらの出土遺物には廃城後、山中宿が成立する17世紀中葉までの間、空白期がみられ、しかも本城跡の廃城年が明確なことから出土遺物は少ないものの編年研究には良好な資料と言える。
武器・武具の出土もまた多くはないが、甲冑をはじめ基本的なセットは揃っている。多くの遺物に二次的な焼成が看取され、戦後処理が行われたことが明らかである。また、皮革を素材とし漆塗り処理を施したものも多く見られ、当時の甲冑が極めて軽快な装備であったことが知られる。西櫓、北条丸の土塁上には人頭大の礫が多数集石され、また堀底からの出土も顕著であったため、これらの礫は石つぶてと考えられた。一方、堀底からは多数の鉄砲玉と大筒玉が出土していることから、火縄銃はもとより大筒までも保持されていたことが明らかで、こうした新旧の防衛装備が共存し、機能したことが示されたことは重要であり、当時の戦闘システムを考える上でも大変重要であろう。
山中城は先にもふれたように戦後の開墾により曲輪内部が破壊されていることから明確な建造物を推定しうるものは少ない。しかし、西ノ丸西堀、北条丸西堀では障子堀が偶然にも地下水脈を切っており、部分的に水堀を形成した区画が存在した。この区画では柱をはじめとする建築部材が少なからず出土しており、山中城の建造物を推定するうえで貴重な資料となった。また、小径木を使用した柵の部材、これを作った際の削り掛けや処理した小枝までも出土し、臨戦時におけるあわただしさがうかがえるような資料も出土している。
●発掘調査の範囲と経過
年度 | 年次 | 調査範囲 | 面積(平方メートル) | 金額(円) |
48 | 第1次 | 西櫓、無名曲輪、溜池、西櫓堀 | 1,100 | 3,015,000 |
49 | 第2次 | 西櫓、西の丸、西櫓堀、西の丸堀(障子堀) | 1,300 | 4,000,000 |
50 | 第3次 | 西の丸見張台、西の丸(南半分)、西の丸土橋、西櫓堀 | 1,300 | 3,973,000 |
51 | 第4次 | 西櫓堀、西の丸堀(6区画)、見張台虎口、西の丸(北半分) | 1,800 | 6,000,000 |
52 | 第5次 | 西櫓堀、箱井戸、本丸跡、北の丸(西半分)、本丸堀 | 2,000 | 7,000,000 |
53 | 第6次 | 天守櫓、兵糧庫、田尻の池、岱崎出丸御馬場、空堀 | 1,500 | 5,300,000 |
54 | 第7次 | 岱崎出丸全域 | 2,300 | 6,520,000 |
55 | 第8次 | 西の丸北側平坦部 | 400 | 960,000 |
56 | 第9次 | 岱崎出丸西側堀 | 1,000 | 2,915,000 |
62 | 第11次 | 北条丸西堀、曲輪、東堀の一部 | 2,000 | 9,000,000 |
63 | 第12次 | 北条丸曲輪北堀、東堀(本丸堀)、虎口、橋脚台 | 1,520 | 8,231,000 |
元 | 第13次 | 北条丸南虎口(進入路)本丸西虎口 | 1,400 | 3,939,568 |
3 | 第16次 | 北条丸南虎口(進入路・二階門) | 500 | 2,738,169 |
4 | 第17次 | 北の丸(東半分) | 1,450 | 3,583,860 |
合 計 | 19,570 | 67,175,597 |