(第187号) 竹かご職人の道具 (平成15年12月1日号)
市内にあった「竹細工」の看板がいつの間にか姿を消しつつあります。西本町で竹製品を製作販売していた松本政義氏が数年前に亡くなり、竹かごを作る職人は三島にいなくなりました。先年、松本家より故人が製作する時使用した道具を寄贈していただき、展示しています。
松本さんは三代続く竹かご製造の職人で、厳しい父親からその製法を受け継ぎ、40年余竹かご一筋に生きました。 戦後、物のない時代には炭を入れる竹かご製造で活気があり、市内には15軒以上の同業者がいたそうです。 振り返れば昭和30年代までは住まいのあちこちに竹かごの姿がありました。炭入れかご、ごみ箱、茶碗かご、角ざる。また、畑でとれた野菜を入れて背負うボーラは農民の必需品で、今でも松本さんが作ったボーラが多くの農家で愛用されています。
晩秋から冬に伐り出したモウソウチクを必要なへごの長さに切り竹の節をカンナで落とします。この後、竹を縦に割ります。竹専用のナタを使い裂け目を入れて割るのですが、竹を通すだけで三等分、五等分に割る道具も残されており、作業がはかどったようです。 これを竹割包丁で2~3枚におろし、必要なへごの出来上がり。同じ厚さのへごを作るのは難しく長い経験で培われた技術です。
次に、竹のへごを編みます。松本家にはさまざまなかごの編み目型や編み組型が残されています。使用目的に合わせた編み目、編み組を用いました。また、ブリキでできたゴミ箱の型や、竹で組まれた、かごの型、クス球の型などが残され、この型に合わせ竹かごが一つ一つ編まれたのです。
旧道沿いにあった店の板の間で松本さんが黙々と竹かごを編んでいた姿は、前を通る多くの人々に日本の職人の姿を伝えていました。
(広報みしま 平成15年12月1日号掲載記事)
松本さんは三代続く竹かご製造の職人で、厳しい父親からその製法を受け継ぎ、40年余竹かご一筋に生きました。 戦後、物のない時代には炭を入れる竹かご製造で活気があり、市内には15軒以上の同業者がいたそうです。 振り返れば昭和30年代までは住まいのあちこちに竹かごの姿がありました。炭入れかご、ごみ箱、茶碗かご、角ざる。また、畑でとれた野菜を入れて背負うボーラは農民の必需品で、今でも松本さんが作ったボーラが多くの農家で愛用されています。
晩秋から冬に伐り出したモウソウチクを必要なへごの長さに切り竹の節をカンナで落とします。この後、竹を縦に割ります。竹専用のナタを使い裂け目を入れて割るのですが、竹を通すだけで三等分、五等分に割る道具も残されており、作業がはかどったようです。 これを竹割包丁で2~3枚におろし、必要なへごの出来上がり。同じ厚さのへごを作るのは難しく長い経験で培われた技術です。
次に、竹のへごを編みます。松本家にはさまざまなかごの編み目型や編み組型が残されています。使用目的に合わせた編み目、編み組を用いました。また、ブリキでできたゴミ箱の型や、竹で組まれた、かごの型、クス球の型などが残され、この型に合わせ竹かごが一つ一つ編まれたのです。
旧道沿いにあった店の板の間で松本さんが黙々と竹かごを編んでいた姿は、前を通る多くの人々に日本の職人の姿を伝えていました。
(広報みしま 平成15年12月1日号掲載記事)