(第180号) 北伊豆震災からの復興 ~天皇陛下からの恩賜金~ (平成15年5月1日号)
三島市の中心市街地が「三島町(みしまちょう)」だった明治22年(1889)から昭和16年(1941)までの約五十年間に、町民は幾度も時流の浮き沈みに遭っています。
初めは東海道線(御殿場経由)の開通により、三島宿で栄えた旅籠(はたご)の多くが転廃業しさびれます。
大正年間に野戦重砲兵連隊の誘致によって、軍都として栄えますが、大正12年の関東大震災で被害を蒙ります。三島町の罹災(りさい)世帯26戸、全半壊107軒。
さらに昭和5年(1930)11月26日早朝の北伊豆震災で町は甚大な被害を受けるのです。
この時三島町では死者7人、負傷者68人、全壊家屋713軒、半壊家屋2390軒(非住家を含む)で、総戸数4140戸の内、42%、1756戸が罹災するという被害により、被害総額450万円と見積もられています。
三島町中心部のほとんどの家が倒れ、箱根西麓の道は寸断されました。この時、県の内外から消防組、青年団などが救援にかけつけ倒壊家屋の整備、道路の復旧、傷病者の治療などにあたっています。静岡県に寄せられた義捐金(ぎえんきん)は72万円に達し、罹災町村に配分されました。
写真は震災の復興に役立てるようにと天皇皇后両陛下から静岡県へ五千円の御下賜金があり、これを県が罹災者へ恩賜金として一軒につき二円ずつ配布したものです。
中央町の森山家では恩賜金を尊いものとして使わずに長く保管してきました。水引のついたのし熨斗紙に包まれ、天皇皇后両陛下からの御下賜金の旨の一文が添えられています。「壱圓(いちえん)」の日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)には、武内大臣(武内宿禰・たけのうちのすくね)が描かれています。お金の価値は現在の二千円~三千円ほどでしょうか。
こうした基金と、震災復旧住宅資金を利用して町民たちは当時流行していたスレートとトタン葺きのモダンな建物を建て始めたのです。昭和八年頃にはすっかり新しい町並みに生まれかわりました。
(広報みしま 平成15年5月1日号掲載記事)
初めは東海道線(御殿場経由)の開通により、三島宿で栄えた旅籠(はたご)の多くが転廃業しさびれます。
大正年間に野戦重砲兵連隊の誘致によって、軍都として栄えますが、大正12年の関東大震災で被害を蒙ります。三島町の罹災(りさい)世帯26戸、全半壊107軒。
さらに昭和5年(1930)11月26日早朝の北伊豆震災で町は甚大な被害を受けるのです。
この時三島町では死者7人、負傷者68人、全壊家屋713軒、半壊家屋2390軒(非住家を含む)で、総戸数4140戸の内、42%、1756戸が罹災するという被害により、被害総額450万円と見積もられています。
三島町中心部のほとんどの家が倒れ、箱根西麓の道は寸断されました。この時、県の内外から消防組、青年団などが救援にかけつけ倒壊家屋の整備、道路の復旧、傷病者の治療などにあたっています。静岡県に寄せられた義捐金(ぎえんきん)は72万円に達し、罹災町村に配分されました。
写真は震災の復興に役立てるようにと天皇皇后両陛下から静岡県へ五千円の御下賜金があり、これを県が罹災者へ恩賜金として一軒につき二円ずつ配布したものです。
中央町の森山家では恩賜金を尊いものとして使わずに長く保管してきました。水引のついたのし熨斗紙に包まれ、天皇皇后両陛下からの御下賜金の旨の一文が添えられています。「壱圓(いちえん)」の日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)には、武内大臣(武内宿禰・たけのうちのすくね)が描かれています。お金の価値は現在の二千円~三千円ほどでしょうか。
こうした基金と、震災復旧住宅資金を利用して町民たちは当時流行していたスレートとトタン葺きのモダンな建物を建て始めたのです。昭和八年頃にはすっかり新しい町並みに生まれかわりました。
(広報みしま 平成15年5月1日号掲載記事)