(第10号) 三島宿に宿泊した将軍の「お茶壺」(昭和63年4月1日号)
毎年新茶の季節になると東海道を往復した「御茶壺」が三島宿に宿泊するという古文書があります。
「御茶壺」とは、将軍が飲む宇治の新茶を入れた壺のことです。現代の世から思えば、たかが茶壺が泊るくらいで何をおおげきにと思いますがそこは江戸時代の将軍様の御 茶壺の事、それだけで宿場はお迎えの準備に追われたものでした。
文書の差出人は三島代官五味小左衛門(貞享四年-元禄七年)。受取人は三島宿の問屋役人です。
「今度、御茶壺が初めて三島に宿泊するが、従来の様な町人足だけでは足りないので、助郷の村々からも在人足が応援に出るように申渡してある。こうした助郷の者を旨く使って、御用が遅滞しないよう勤めてもらいたい」との代官からの依頼が内容です。文面から代官の慎重な気配りが感じられます。これを受けた三島宿の問屋(役所)は、さっそく宿泊先の本陣の手配を行い、助郷人足を集めることに気を使った事でしょう。
将軍用の茶壺の往還を「御茶壺道中」といいました。この任務を行うのは、江戸城で将軍の茶壺をつかさどり、茶道に通じる御城坊主(給仕)の「御数寄屋頭」でした。身分は高くないが、将軍に直接お茶を供するという特別職でしたから、御茶壺を運ぶ彼らの誇りは並の大名以上で、これを迎える東海道の各宿場の苦労は並たいていではなかったそうです。
御茶壺が通るから道すじをきれいに清掃しなさい。凧あげなどはしてはいけない。このような種々注意の触れも町役人から事前に出されています。たまたま参勤交替の途中の小藩の大名等は、脇道へそれて、御茶壺道中との接触を避けた事もあったといいます。
一通の御茶壺道中文書から、当時の人々の心配顔が見えてくるようです。時は元禄四年六月十四日(西暦で1691年7月9日)のこと。意外なほど遅い新茶のお通りです。
(広報みしま 昭和63年4月1日号掲載記事)
「御茶壺」とは、将軍が飲む宇治の新茶を入れた壺のことです。現代の世から思えば、たかが茶壺が泊るくらいで何をおおげきにと思いますがそこは江戸時代の将軍様の御 茶壺の事、それだけで宿場はお迎えの準備に追われたものでした。
文書の差出人は三島代官五味小左衛門(貞享四年-元禄七年)。受取人は三島宿の問屋役人です。
「今度、御茶壺が初めて三島に宿泊するが、従来の様な町人足だけでは足りないので、助郷の村々からも在人足が応援に出るように申渡してある。こうした助郷の者を旨く使って、御用が遅滞しないよう勤めてもらいたい」との代官からの依頼が内容です。文面から代官の慎重な気配りが感じられます。これを受けた三島宿の問屋(役所)は、さっそく宿泊先の本陣の手配を行い、助郷人足を集めることに気を使った事でしょう。
将軍用の茶壺の往還を「御茶壺道中」といいました。この任務を行うのは、江戸城で将軍の茶壺をつかさどり、茶道に通じる御城坊主(給仕)の「御数寄屋頭」でした。身分は高くないが、将軍に直接お茶を供するという特別職でしたから、御茶壺を運ぶ彼らの誇りは並の大名以上で、これを迎える東海道の各宿場の苦労は並たいていではなかったそうです。
御茶壺が通るから道すじをきれいに清掃しなさい。凧あげなどはしてはいけない。このような種々注意の触れも町役人から事前に出されています。たまたま参勤交替の途中の小藩の大名等は、脇道へそれて、御茶壺道中との接触を避けた事もあったといいます。
一通の御茶壺道中文書から、当時の人々の心配顔が見えてくるようです。時は元禄四年六月十四日(西暦で1691年7月9日)のこと。意外なほど遅い新茶のお通りです。
(広報みしま 昭和63年4月1日号掲載記事)