(第56号) 玉音放送も流れた ラジオ (平成4年2月1日号)

 戦後、テレビが出現するまで、ラジオはマスコミの花形でした。ことに、中年以上の方には、ラジオの思い出を持っている人が多いことでしょう。「ラジオを聞いて育った」と言う方もいるかも知れません。
 ラジオは昭和時代を象徴する電気製品の一つです。今、開催中の「昭和史三島」で展示中のラジオを、話題に取っ上げてみたいと思います。戦後一番のラジオは、終戦を告げる「玉音放送」のラジオでしょう。
 昭和二十年八月十五日正午。日本中の国民が、あれほど真剣に、ラジオ放送に耳を傾けたことはなかったことと思います。「ガーガー、ピーピー」と、雑音だらけの真空管ラジオから流れる天皇陛下の終戦のお言葉に、人々は全神経を集中させて聞いたものだそうです。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」と、切れ切れに聞こえてくる天皇の声に、人々は戦争の終結を確認したのでした。
 一説に、この天皇の戦争終結詔書のお言葉の一部は、龍澤禅寺(沢地)の山本玄峰老師の助言を鈴木貫太郎首相が聞き入れ、御前会議に諮った上で作成したものと言われます。
 そして、戦後の復興期、ラジオは日本国民にはかり知れない大きな影響を与えます。
 舞鶴港などに続々と帰ってくる大陸からの引揚者たちの消息を伝えるラジオ放送。その人々の心を和ませる歌謡・浪曲番組等々。まさに、ラジオは、戦後日本の、荒廃した人々の心をつなぐ大役を果たしたものでした。
 昭和二十年代の後半からテレビ放送が始まりました。人々は街頭テレビのプロレス中継に目を見張り、人気レスラー力道山の活躍に狂喜しました。テレビの普及と反比例するようにラジオは下火となりますが、こうした時期に登場したのがトランジスターラジオでした。小型化、高性能化への脱皮を図り、トランジスターラジオの輸出が高度経済成長の一翼を担ったものです。
(広報みしま 平成4年2月1日号掲載記事)