(第202号) 三四呂人形の話(1)桃子と里子と菜の花雛の話 (平成17年3月1日号)
もうすぐ三月三日のひな祭りです。今回は、三島市を代表する文化財である三四呂人形とひな祭りにまつわるお話を紹介しましょう。
三四呂人形の作者は、明治34年12月に大中島(現在の本町)で生まれた野口三四郎です。三四郎には「桃里」という愛娘がいました。桃里ちゃんは昭和7年の3月に誕生しますが、桃の花の咲く季節ということから名付けられたようです。桃里ちゃんをモチーフにした作品として有名なのが「桃子」「里子」です。「桃子」はちょうど生後六ヶ月くらいの乳児期、「里子」は一歳過ぎの幼児期をイメージしたものと思われます。どちらの作品も桃色を基調として、何とも言えず可愛らしい、あどけない表情を浮かべています。
さらに、この「桃子」「里子」をモチーフにした「菜の花雛の話」という童話があります。葉書大の和紙四枚と、版画の挿絵四枚で作られた次のような短いお話です。
江戸時代、ある淋しい山里の貧しい家に、姉を里子、妹を桃子という姉妹が暮らしていました。三月三日桃の節句となりましたが、二人の家は貧しいのでお雛さまを飾ることができません。そんな時に姉の里子はふと裏畑の菜の花を摘んでお雛さまを作ることを思いつきます。姉妹は協力して菜の花のお雛さまを作り、飾って遊ぶのでした…というお話です。そして最後に三四郎はこう結んでいます。
「こうして二人の姉妹に作られたおひな様は、この二人の気持はい云うに及ばず、形も全く美しいと云うので、今もなお「菜の花びな」として残っています。おそらく後々までも伝わる事でしょう。」
しかし残念なことに桃里ちゃんは結核に冒され、昭和10年にわずか三歳という短い生涯を閉じます。実はこの前年に妻のしげさんも亡くなっており、三四郎は度重なる悲しみに打ちひしがれながら、傷ついた心を癒すために伊豆大島へ渡り、そこで目にした椿にヒントを得て、在りし日の桃里ちゃんの姿を「椿」という作品で表現します。このように三四呂人形のひとつひとつには三四郎の切なる思いが込められているのです。
(広報みしま 平成17年3月1日号掲載記事)
三四呂人形の作者は、明治34年12月に大中島(現在の本町)で生まれた野口三四郎です。三四郎には「桃里」という愛娘がいました。桃里ちゃんは昭和7年の3月に誕生しますが、桃の花の咲く季節ということから名付けられたようです。桃里ちゃんをモチーフにした作品として有名なのが「桃子」「里子」です。「桃子」はちょうど生後六ヶ月くらいの乳児期、「里子」は一歳過ぎの幼児期をイメージしたものと思われます。どちらの作品も桃色を基調として、何とも言えず可愛らしい、あどけない表情を浮かべています。
さらに、この「桃子」「里子」をモチーフにした「菜の花雛の話」という童話があります。葉書大の和紙四枚と、版画の挿絵四枚で作られた次のような短いお話です。
江戸時代、ある淋しい山里の貧しい家に、姉を里子、妹を桃子という姉妹が暮らしていました。三月三日桃の節句となりましたが、二人の家は貧しいのでお雛さまを飾ることができません。そんな時に姉の里子はふと裏畑の菜の花を摘んでお雛さまを作ることを思いつきます。姉妹は協力して菜の花のお雛さまを作り、飾って遊ぶのでした…というお話です。そして最後に三四郎はこう結んでいます。
「こうして二人の姉妹に作られたおひな様は、この二人の気持はい云うに及ばず、形も全く美しいと云うので、今もなお「菜の花びな」として残っています。おそらく後々までも伝わる事でしょう。」
しかし残念なことに桃里ちゃんは結核に冒され、昭和10年にわずか三歳という短い生涯を閉じます。実はこの前年に妻のしげさんも亡くなっており、三四郎は度重なる悲しみに打ちひしがれながら、傷ついた心を癒すために伊豆大島へ渡り、そこで目にした椿にヒントを得て、在りし日の桃里ちゃんの姿を「椿」という作品で表現します。このように三四呂人形のひとつひとつには三四郎の切なる思いが込められているのです。
(広報みしま 平成17年3月1日号掲載記事)