(第204号) 三四呂人形の話(3) 三島が生んだ芸術家・野口三四郎 (平成17年5月1日号)
今回は三四呂人形の作者である野口三四郎について紹介します。
野口三四郎は明治34年、三島町の大中島(現在の本町)で質屋を営んでいた野口達之助、よね夫妻の次男として生まれました。生まれ年の「三」と「四」にちなみ、三四郎と名付けられました。
幼少期のことは詳しく分かりませんが、韮山中学(現・韮山高校)へ進み、そこで澤田政廣や栗原忠二などの芸術家を育てた美術教師の彦坂繁三郎先生と出会います。三四郎もこの彦坂先生に大きな影響を受けたようです。
昭和3年には三越デパートの早撮り写真の機械技師となり、ここで夫人となる入野しげさんと知り合います。翌4年には朝鮮博覧会が京城(現・ソウル)で開催され、この博覧会の自動写真撮影館の撮影技師として派遣されます。ここで、朝鮮半島の山村風景や人々の生活に大いに刺激を受け、博覧会終了後も一ヶ月ほど滞在し、各地の様子をスケッチしてまわり、それらが人形製作に生かされます。
帰京後は世田谷で写真館を開業しますが、本格的な人形製作もこの頃からです。当時、人形を芸術の域に高めようという人形芸術運動が盛んになり、昭和9年に鹿児島寿蔵・堀柳女・野口光彦といった後の人形界を代表するメンバーと共に甲戌会を結成し、人形芸術運動にも力を注ぎました。しかし同じ頃、妻・しげさん、娘・桃里ちゃんが相次いで亡くなります。
こうした中、昭和11年に東京・白木屋で開催された第一回総合人形芸術展覧会に、三島の水辺で遊ぶ子供たちを題材にした作品「水辺興談」を出品し、最高賞である人形芸術院賞を受賞します。
三四郎は甲戌会同人誌で人形について次のように語っています。
-子供は常に素純な詩人である。(中略)私はその私の作品を観る人々がもしこうした事(美しい童心)などを感じ、お互の多忙にまぎれ、忘れがちなその幼き日の美しい追憶に耽けることができるなら、作者としてのこの喜びはこれに過ぐるものはない-
受賞の翌年、昭和12年2月22日、人形製作に情熱を注いだ三四郎は、わずか35年の短い生涯を閉じました。
(広報みしま 平成17年5月1日号掲載記事)
野口三四郎は明治34年、三島町の大中島(現在の本町)で質屋を営んでいた野口達之助、よね夫妻の次男として生まれました。生まれ年の「三」と「四」にちなみ、三四郎と名付けられました。
幼少期のことは詳しく分かりませんが、韮山中学(現・韮山高校)へ進み、そこで澤田政廣や栗原忠二などの芸術家を育てた美術教師の彦坂繁三郎先生と出会います。三四郎もこの彦坂先生に大きな影響を受けたようです。
昭和3年には三越デパートの早撮り写真の機械技師となり、ここで夫人となる入野しげさんと知り合います。翌4年には朝鮮博覧会が京城(現・ソウル)で開催され、この博覧会の自動写真撮影館の撮影技師として派遣されます。ここで、朝鮮半島の山村風景や人々の生活に大いに刺激を受け、博覧会終了後も一ヶ月ほど滞在し、各地の様子をスケッチしてまわり、それらが人形製作に生かされます。
帰京後は世田谷で写真館を開業しますが、本格的な人形製作もこの頃からです。当時、人形を芸術の域に高めようという人形芸術運動が盛んになり、昭和9年に鹿児島寿蔵・堀柳女・野口光彦といった後の人形界を代表するメンバーと共に甲戌会を結成し、人形芸術運動にも力を注ぎました。しかし同じ頃、妻・しげさん、娘・桃里ちゃんが相次いで亡くなります。
こうした中、昭和11年に東京・白木屋で開催された第一回総合人形芸術展覧会に、三島の水辺で遊ぶ子供たちを題材にした作品「水辺興談」を出品し、最高賞である人形芸術院賞を受賞します。
三四郎は甲戌会同人誌で人形について次のように語っています。
-子供は常に素純な詩人である。(中略)私はその私の作品を観る人々がもしこうした事(美しい童心)などを感じ、お互の多忙にまぎれ、忘れがちなその幼き日の美しい追憶に耽けることができるなら、作者としてのこの喜びはこれに過ぐるものはない-
受賞の翌年、昭和12年2月22日、人形製作に情熱を注いだ三四郎は、わずか35年の短い生涯を閉じました。
(広報みしま 平成17年5月1日号掲載記事)