(第211号) 江戸時代の文学(3) ~新発見の小説 『敵討田前豪傑伝』~ (平成17年12月1日号)
勝俣文庫に収められている小説の山の中に、私たちは『敵討田前豪傑伝(かたきうちたまえごうけつでん)』という見慣れない作品を見つけました。
この本は、今まで全く紹介された事のない作品ですので、新発見という事になります。しかも読んでみるとそれは、三島の伊豆佐野を舞台にした敵討ち小説でした。
少しあらすじを紹介しましょう。伊豆佐野の田前年十郎(たまえねんじゅうろう)は、大山石尊大権現(おおやませきそんだいごんげん・今の神奈川県)から剣術を教わった少年剣士でした。しかし、父を剣術仲間の山口六平という人に殺されてしまいました。年十郎は敵討ちを決意し、どこかへ逃げてしまった山口六平を探して全国を旅します。
旅先にはさまざまな困難が待ち受けていました。碓氷峠(今の群馬県)ではオオカミの群れと戦い、岡山では道場の師範を倒し、その道場を手伝ったりもしました。萩(今の山口県)に行く途中では、山賊をやっつけ、一味を解散させました。
何年も諸国を旅した結果、山口六平たちが名前を変えて九州の熊本藩で剣術師範をしている事が分かりました。年十郎は殿様の許しを得て、みごと山口六平たちを討ち果たしました。
三島へ帰った年十郎は、敵たちの首を父の墓にそなえました。そして、その立派な行いを褒められて、韮山代官の一人娘に婿として、めでたく迎えられた、という物語です。
著者は勝俣清作、滝の本連水の長男です。跋文(ばつぶん)などから明治4年(1871)にできた作品である事がわかります。勝又家の過去帳によりますと、清作は明治8年(1875)に21歳で没しています。ですからこの作品は、清作17歳の作という事になります。
いかにも敵討ち小説をよく読んでいた人らしく、敵討ちの典型的なストーリーが踏まえられています。そして三島の人物が書いた三島を舞台とした小説であること、勝俣家における小説の読書が、創作にもつながっていた事を示す点で、勝俣文庫のなかでも貴重な作品であると言うことができるでしょう。 (明星大学講師 勝又 基)
(広報みしま 平成17年12月1日号掲載記事)
この本は、今まで全く紹介された事のない作品ですので、新発見という事になります。しかも読んでみるとそれは、三島の伊豆佐野を舞台にした敵討ち小説でした。
少しあらすじを紹介しましょう。伊豆佐野の田前年十郎(たまえねんじゅうろう)は、大山石尊大権現(おおやませきそんだいごんげん・今の神奈川県)から剣術を教わった少年剣士でした。しかし、父を剣術仲間の山口六平という人に殺されてしまいました。年十郎は敵討ちを決意し、どこかへ逃げてしまった山口六平を探して全国を旅します。
旅先にはさまざまな困難が待ち受けていました。碓氷峠(今の群馬県)ではオオカミの群れと戦い、岡山では道場の師範を倒し、その道場を手伝ったりもしました。萩(今の山口県)に行く途中では、山賊をやっつけ、一味を解散させました。
何年も諸国を旅した結果、山口六平たちが名前を変えて九州の熊本藩で剣術師範をしている事が分かりました。年十郎は殿様の許しを得て、みごと山口六平たちを討ち果たしました。
三島へ帰った年十郎は、敵たちの首を父の墓にそなえました。そして、その立派な行いを褒められて、韮山代官の一人娘に婿として、めでたく迎えられた、という物語です。
著者は勝俣清作、滝の本連水の長男です。跋文(ばつぶん)などから明治4年(1871)にできた作品である事がわかります。勝又家の過去帳によりますと、清作は明治8年(1875)に21歳で没しています。ですからこの作品は、清作17歳の作という事になります。
いかにも敵討ち小説をよく読んでいた人らしく、敵討ちの典型的なストーリーが踏まえられています。そして三島の人物が書いた三島を舞台とした小説であること、勝俣家における小説の読書が、創作にもつながっていた事を示す点で、勝俣文庫のなかでも貴重な作品であると言うことができるでしょう。 (明星大学講師 勝又 基)
(広報みしま 平成17年12月1日号掲載記事)