(第217号)三嶋暦にみる米作り 暦と農事の関係 (平成18年6月1日号)
農耕民族である日本人にとって季節の移り変わりを知ることは非常に大切な事でした。この季節の移り変わりという自然現象を長い間の経験によってまとめたものが暦です。特に江戸幕府が全国統一する以前の三嶋暦には農事に関する注が多かったともいわれており、農事と暦は切っても切り離せない関係であったといえます。
三嶋暦は、現在のように太陽の動きを中心にして作られた暦ではなく、月の動きと太陽の動きを合わせて作られた暦(旧暦)です。月の周期は約29.5日ですから十二ヶ月では三五四日となり、太陽に対する地球の公転周期である約三六五日とはおよそ十一日間の差があります。仮にこのまま三年経った場合、およそ一ヶ月の差が生じ、年を追うごとににその差は広がるばかりで季節の把握が難しくなってしまい、農作業に重大な影響を及ぼすことになります。そこで、約三年に一度の閏月(うるうづき)を入れて調整するほかに、一年を二十四等分し十五日に一度の季節を把握するための基準日を設けました。これが立春や秋分、夏至、冬至など二十四節気(にじゅうしせっき)と呼ばれるものです。二十四節気は太陽の動きを基準に計算しますから、これにより季節をきちんと把握することができました。
さて、江戸時代の天保十五年三嶋暦で具体的に米作りに関わる注記を見てみると、二十四節気の春分(3/21) を過ぎ清明(4/5)の頃から「種(たね)浸(か)し(=発芽を促すため、苗代にまく前に種籾を水に浸すこと) 吉」や「種まき吉」という記述が目立ち始めます。そして立夏(5/6)過ぎから小暑(7/7)の前まで「早開き 吉」「田植え吉」という記述が次第に増えてきます。早開きとは早苗を田に植え始める事です。そして台風シーズンである二百十日を迎え、白露(9/8)の頃から霜降(10/23)にかけては「田刈り吉」とあり、稲刈りシーズンである事がわかります。また明治十八年に発行された三島略暦には、種まきや植付けの日付、その他、粟・蕎麦・大根・菜種・麦などの種まきの記述も見えます。このように以前は農事暦が生活暦と一緒になっており、ごく自然にこれらの時期を知ることができたのです。
※二十四節気の( )内は平成十八年の日付です。
【平成18年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】
三嶋暦は、現在のように太陽の動きを中心にして作られた暦ではなく、月の動きと太陽の動きを合わせて作られた暦(旧暦)です。月の周期は約29.5日ですから十二ヶ月では三五四日となり、太陽に対する地球の公転周期である約三六五日とはおよそ十一日間の差があります。仮にこのまま三年経った場合、およそ一ヶ月の差が生じ、年を追うごとににその差は広がるばかりで季節の把握が難しくなってしまい、農作業に重大な影響を及ぼすことになります。そこで、約三年に一度の閏月(うるうづき)を入れて調整するほかに、一年を二十四等分し十五日に一度の季節を把握するための基準日を設けました。これが立春や秋分、夏至、冬至など二十四節気(にじゅうしせっき)と呼ばれるものです。二十四節気は太陽の動きを基準に計算しますから、これにより季節をきちんと把握することができました。
さて、江戸時代の天保十五年三嶋暦で具体的に米作りに関わる注記を見てみると、二十四節気の春分(3/21) を過ぎ清明(4/5)の頃から「種(たね)浸(か)し(=発芽を促すため、苗代にまく前に種籾を水に浸すこと) 吉」や「種まき吉」という記述が目立ち始めます。そして立夏(5/6)過ぎから小暑(7/7)の前まで「早開き 吉」「田植え吉」という記述が次第に増えてきます。早開きとは早苗を田に植え始める事です。そして台風シーズンである二百十日を迎え、白露(9/8)の頃から霜降(10/23)にかけては「田刈り吉」とあり、稲刈りシーズンである事がわかります。また明治十八年に発行された三島略暦には、種まきや植付けの日付、その他、粟・蕎麦・大根・菜種・麦などの種まきの記述も見えます。このように以前は農事暦が生活暦と一緒になっており、ごく自然にこれらの時期を知ることができたのです。
※二十四節気の( )内は平成十八年の日付です。
【平成18年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】