(第224号)三島ゆかりの芸術家たち【3】(平成19年1月1日号)
開館三十五周年記念企画展「三島ゆかりの芸術家たち」(平成十八年十一月三日から平成十九年一月二十八日まで)に合わせ、郷土の芸術家や企画展について、三回シリーズで紹介しています。
第三回目は、特別展示として三島市新庁舎(現庁舎)落成を記念して寄贈された絵画の作者柏木俊一と、小浜池を描いた石井柏亭です。
前号で紹介した杉本英一の師で、「南豆白浜風景」を描いた柏木(かしわぎ)俊一(しゅんいち)は、明治二十七年に韮山(現伊豆の国市)の名家に生まれます。明治四十年韮山中学(現県立韮山高校)へ入学しますが、絵を書くことが大好きで、同窓生の彫刻家澤田(さわだ)政廣(せいこう)とは、試験中でも写生へ出かけていました。
卒業と同時に上京。本郷洋画研究所に入り、藤島武二に絵をみてもらいます。その後、岸田(きしだ)劉生(りゅうせい)の影響を受け、梅原龍三郎に師事します。また水墨画では従兄の近藤浩一路の影響を受け、多くは、「柏山人」の雅号を用いました。郷土資料館にも「柏山人」の雅号を使用した柏木俊一と、杉本英一、青波の合作屏風が残っています。交友者には、中川一政、武者小路実篤らもいました。
新庁舎落成記念として柏木俊一の「南豆白浜風景」のほか、「バラ」江藤(えとう)哲(てつ)、「高原の秋浅間山」高森(たかもり)捷三(かつぞう)、「外房風景」 山寺重子(やまでらしげこ)、「静物」藤野嘉市(ふじのかいち)、「生花」北村(きたむら)脩(おさむ)、「竹」松浦満(まつうらみつる)の絵が寄贈されています。
「小浜池」を描いた石井柏亭(いしいはくてい)は、明治十五年東京に生まれます。父は、日本画家の石井鼎湖(いしいていこ)、弟は彫刻家石井(いしい)鶴三(つるぞう)です。父に日本画を、浅井忠(あさいちゅう)に洋画を学びます。明治三十七年大蔵省印刷局を辞し、東京美術学校西洋画科(現東京芸大)に入学します。石井柏亭の職業は一言では語ることができません。画家として油彩画・日本画・水彩画・版画の各ジャンルに業績を残し、詩人・歌人として与謝野鉄幹・晶子の雑誌『明星』に詩や文章を寄せます。更に、美術教育者として幼稚園園長・文化学院美術部長・東京帝国大学講師を務め、編集者として雑誌『方寸』の創刊にたずさわります。また、批評家としても編著・共著を含めると四十冊を超える著書を出版するなど、幅広い才能を発揮しました。また日本水彩画会、二科会、一水会の創立にも貢献しました。
【平成19年 広報みしま 1月1日号 掲載記事】
第三回目は、特別展示として三島市新庁舎(現庁舎)落成を記念して寄贈された絵画の作者柏木俊一と、小浜池を描いた石井柏亭です。
前号で紹介した杉本英一の師で、「南豆白浜風景」を描いた柏木(かしわぎ)俊一(しゅんいち)は、明治二十七年に韮山(現伊豆の国市)の名家に生まれます。明治四十年韮山中学(現県立韮山高校)へ入学しますが、絵を書くことが大好きで、同窓生の彫刻家澤田(さわだ)政廣(せいこう)とは、試験中でも写生へ出かけていました。
卒業と同時に上京。本郷洋画研究所に入り、藤島武二に絵をみてもらいます。その後、岸田(きしだ)劉生(りゅうせい)の影響を受け、梅原龍三郎に師事します。また水墨画では従兄の近藤浩一路の影響を受け、多くは、「柏山人」の雅号を用いました。郷土資料館にも「柏山人」の雅号を使用した柏木俊一と、杉本英一、青波の合作屏風が残っています。交友者には、中川一政、武者小路実篤らもいました。
新庁舎落成記念として柏木俊一の「南豆白浜風景」のほか、「バラ」江藤(えとう)哲(てつ)、「高原の秋浅間山」高森(たかもり)捷三(かつぞう)、「外房風景」 山寺重子(やまでらしげこ)、「静物」藤野嘉市(ふじのかいち)、「生花」北村(きたむら)脩(おさむ)、「竹」松浦満(まつうらみつる)の絵が寄贈されています。
「小浜池」を描いた石井柏亭(いしいはくてい)は、明治十五年東京に生まれます。父は、日本画家の石井鼎湖(いしいていこ)、弟は彫刻家石井(いしい)鶴三(つるぞう)です。父に日本画を、浅井忠(あさいちゅう)に洋画を学びます。明治三十七年大蔵省印刷局を辞し、東京美術学校西洋画科(現東京芸大)に入学します。石井柏亭の職業は一言では語ることができません。画家として油彩画・日本画・水彩画・版画の各ジャンルに業績を残し、詩人・歌人として与謝野鉄幹・晶子の雑誌『明星』に詩や文章を寄せます。更に、美術教育者として幼稚園園長・文化学院美術部長・東京帝国大学講師を務め、編集者として雑誌『方寸』の創刊にたずさわります。また、批評家としても編著・共著を含めると四十冊を超える著書を出版するなど、幅広い才能を発揮しました。また日本水彩画会、二科会、一水会の創立にも貢献しました。
【平成19年 広報みしま 1月1日号 掲載記事】