(第231号)ふるさとの人物―太宰治・大岡博・小出正吾・五所平之助― (平成19年8月1日号)
「人間失格」や「走れメロス」で知られる太宰治が、昭和九年(一九三四)のひと夏、三島ですごしたことを知っていますか。
まず、太宰治を紹介します。
明治四十二年(一九〇九)、津軽の裕福な家に生まれた太宰ですが、マルクス主義に傾倒し、挫折。静養のため友人の薦めで、昭和七年(一九三二)静岡県静浦村(現沼津市)の友人宅を訪れ「思ひ出」を執筆します。
その友人が三島に酒屋を構えたため、太宰は三島を訪れ滞在します。友人の名は、坂部武郎。妹のあいと、現在の広小路付近で坂部酒店の支店を経営していました。
三島で書かれたのが、「ロマネスク」。雑誌『青い花』に発表され高い評価を受けます。三部構成のうちの二番目、「喧嘩次郎兵衛」は三島の造り酒屋の三男坊が、モデルではないかといわれています。
さわやかな読後感の「満願」。三島の町医者でのエピソードです。
その後も次々と三島の印象をもとに作品が生まれます。坂部武郎をモデルに書かれた「老ハイデルベルヒ」。そこで太宰は、「三島は、私にとって忘れてはならない土地でした。私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであるといっても過言でないほど、三島は私にとって重大でありました」と記しています。
太宰は、師の井伏鱒二や家族とともに訪れるなど、ほかに何度か三島に来ているようです。また、終戦後は三島に住みたいと妻や友人に語ってますが、そのように太宰に思わしめた三島の魅力は何だったのでしょうか。
次に、今年三十号を発刊する『文芸三島』の創刊当時の三人の選者を取り上げました。『文芸三島』は、「三島に文芸誌を」という市民の熱い思いから昭和五十四年(一九七九)三月に大岡博、大岡信、小出正吾、五所平之助という四人の稀有な選者により創刊されました。
ここでは次の三人を紹介します。
短歌の選者大岡博は、小中学校の教職のかたわら歌誌『菩提樹』を創刊。没後、現在も継承されています。
小説・随筆の選者小出正吾は、児童文学者として、子どもの世界を、自然や郷土への愛とともに著しました。
俳句の選者五所平之助は、映画監督として有名ですが、「五所亭」と号して俳人としても活躍されました。
三氏が、三島市に文芸を根付かせようと尽力したことが現在の文芸の大きな支えになっています。
【平成19年 広報みしま 8月1日号 掲載記事】
まず、太宰治を紹介します。
明治四十二年(一九〇九)、津軽の裕福な家に生まれた太宰ですが、マルクス主義に傾倒し、挫折。静養のため友人の薦めで、昭和七年(一九三二)静岡県静浦村(現沼津市)の友人宅を訪れ「思ひ出」を執筆します。
その友人が三島に酒屋を構えたため、太宰は三島を訪れ滞在します。友人の名は、坂部武郎。妹のあいと、現在の広小路付近で坂部酒店の支店を経営していました。
三島で書かれたのが、「ロマネスク」。雑誌『青い花』に発表され高い評価を受けます。三部構成のうちの二番目、「喧嘩次郎兵衛」は三島の造り酒屋の三男坊が、モデルではないかといわれています。
さわやかな読後感の「満願」。三島の町医者でのエピソードです。
その後も次々と三島の印象をもとに作品が生まれます。坂部武郎をモデルに書かれた「老ハイデルベルヒ」。そこで太宰は、「三島は、私にとって忘れてはならない土地でした。私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであるといっても過言でないほど、三島は私にとって重大でありました」と記しています。
太宰は、師の井伏鱒二や家族とともに訪れるなど、ほかに何度か三島に来ているようです。また、終戦後は三島に住みたいと妻や友人に語ってますが、そのように太宰に思わしめた三島の魅力は何だったのでしょうか。
次に、今年三十号を発刊する『文芸三島』の創刊当時の三人の選者を取り上げました。『文芸三島』は、「三島に文芸誌を」という市民の熱い思いから昭和五十四年(一九七九)三月に大岡博、大岡信、小出正吾、五所平之助という四人の稀有な選者により創刊されました。
ここでは次の三人を紹介します。
短歌の選者大岡博は、小中学校の教職のかたわら歌誌『菩提樹』を創刊。没後、現在も継承されています。
小説・随筆の選者小出正吾は、児童文学者として、子どもの世界を、自然や郷土への愛とともに著しました。
俳句の選者五所平之助は、映画監督として有名ですが、「五所亭」と号して俳人としても活躍されました。
三氏が、三島市に文芸を根付かせようと尽力したことが現在の文芸の大きな支えになっています。
【平成19年 広報みしま 8月1日号 掲載記事】