(第232号)ふるさとの人物(後編) (平成19年9月1日号)
郷土資料館で開催中(平成十九年七月十五日から九月二十四日まで)の企画展「ふるさとの人物」について、七月につづき解説していきます。
秋山富南(地誌編さん者)
江戸時代後期、『豆州志稿』などを編さんした人物です。『豆州志稿』の編さんには、富南の後半生が捧げられ、伊豆地方史研究の貴重な基本資料として、今でも研究者を始め多くの人々に活用されています。これは私たちの暮らす三島を研究するうえでの原典となる書です。
吉原守拙・呼我(教育者)
駿河出身の守拙は江戸で勉学に励んでいましたが、明治のはじめ、近代教育の必要性を感じた三島の有志が「開心庠舎」を開くにあたり招聘され、養子の呼我とともに三島に移り住みました。「開心庠舎」は官立の「三島学校」に切り替わり守拙は校長に、呼我は韮山中学校二等教諭校長を勤めました。
花島兵右衛門・轍吉(実業家)
明治十八年(一八八五)、牛乳や乳製品に馴染みのなかった時代に酪農をはじめ、練乳工場を設立してコンデンスミルクを生み出します。同じ頃、「薔薇女学校(通称、バラ女学校)」も開きました。この二つの出来事は三島の近代化の先駆けとなりました。また、養子の轍吉は養蜂事業にも才能を発揮しました。
平井源太郎(「農兵節」普及活動)
明治十五年(一八八二)、久保町(現・中央町)に生まれます。「農兵節」と「三島」の名を全国に広めるとともに、箱根坂地区の大根も宣伝し、根菜類が関西へ大量に出荷されるきっかけをつくりました。また、「商道改革と農村の共同化」を訴え、昭和十五年(一九四〇)には三島町議会議員に選出されました。
五所平之助(映画監督・俳人)
明治三十五年(一九〇二)に東京に生まれます。映画会社松竹に入社し次々とヒットを出しました。三島出身の夫人との縁で、戦後六反田(現・緑町)に移り住んだ平之助は、三島の美しさを伝えるために、映画『わが街三島―一九七七年の証言』を残しました。
【平成19年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】
秋山富南(地誌編さん者)
江戸時代後期、『豆州志稿』などを編さんした人物です。『豆州志稿』の編さんには、富南の後半生が捧げられ、伊豆地方史研究の貴重な基本資料として、今でも研究者を始め多くの人々に活用されています。これは私たちの暮らす三島を研究するうえでの原典となる書です。
吉原守拙・呼我(教育者)
駿河出身の守拙は江戸で勉学に励んでいましたが、明治のはじめ、近代教育の必要性を感じた三島の有志が「開心庠舎」を開くにあたり招聘され、養子の呼我とともに三島に移り住みました。「開心庠舎」は官立の「三島学校」に切り替わり守拙は校長に、呼我は韮山中学校二等教諭校長を勤めました。
花島兵右衛門・轍吉(実業家)
明治十八年(一八八五)、牛乳や乳製品に馴染みのなかった時代に酪農をはじめ、練乳工場を設立してコンデンスミルクを生み出します。同じ頃、「薔薇女学校(通称、バラ女学校)」も開きました。この二つの出来事は三島の近代化の先駆けとなりました。また、養子の轍吉は養蜂事業にも才能を発揮しました。
平井源太郎(「農兵節」普及活動)
明治十五年(一八八二)、久保町(現・中央町)に生まれます。「農兵節」と「三島」の名を全国に広めるとともに、箱根坂地区の大根も宣伝し、根菜類が関西へ大量に出荷されるきっかけをつくりました。また、「商道改革と農村の共同化」を訴え、昭和十五年(一九四〇)には三島町議会議員に選出されました。
五所平之助(映画監督・俳人)
明治三十五年(一九〇二)に東京に生まれます。映画会社松竹に入社し次々とヒットを出しました。三島出身の夫人との縁で、戦後六反田(現・緑町)に移り住んだ平之助は、三島の美しさを伝えるために、映画『わが街三島―一九七七年の証言』を残しました。
【平成19年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】