(第246号)斉藤茂吉をめぐる歌人たち (平成20年11月1日号)
斎藤茂吉の研究で著名な藤岡武雄さんが貴重な文学資料と蔵書を三島市に寄贈してくださいました。これらの資料を多くの人にご覧いただくため、平成20年十一月一日、生涯学習センター二階に日本文学資料館が開館となります。
今回は開館特別展「茂吉をめぐる歌人たち」についてご紹介します。
〈斎藤茂吉について〉
歌人であり精神科医であった斎藤茂吉は、明治十五(一八八二)年五月十四日、山形県南村山郡金瓶村(現・上山市)の農家・守谷伝右衛門の三男として生まれました。十四歳の時上京し、開成中学から旧制第一高校第三学部(現・東京大学医学部)へ進学します。
明治三十九(一九〇六)年には正岡子規門下の伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み始めます。短歌雑誌『阿羅々木』ではその中心的な歌人となりました。
大正二(一九一三)年、最初の歌集『赤光』を発表し、大きな反響を呼びました。翌年には斎藤てる子と結婚します。
その後、長崎医学専門学校での教授、欧州留学、養父が創設した青山脳病院の全焼と再建など、目まぐるしい時期を送りますが、大正十五(一九二六)年には歌人・島木赤彦の死去にともない『アララギ』の編集発行人となりました。
昭和二十(一九四五)年には、故郷の山形に疎開し、二年あまりを過ごした後東京に戻り、昭和二十八(一九五三)年二月二十五日、新宿大京町の自宅で七十年の生涯を閉じました。
展示では各種資料や写真パネルを使って茂吉について紹介します。
文化勲章受章時の斉藤茂吉
〈アララギ〉
『アララギ』は日本を代表する短歌雑誌です。明治四十一(一九〇八)年、伊藤左千夫を中心に『阿羅々木』として創刊されました。翌年には『アララギ』と改題され、正岡子規門下の歌人らによる根岸短歌会の機関誌となりました。生活に密着した写実的な歌風が特徴です。今回の展示では茂吉自筆の『アララギ』編集原稿をご覧いただけます。
〈観潮楼歌会〉
森鷗外の居宅(東京都文京区千駄木)は「観潮楼」と呼ばれ、明治文壇の社交場でした。明治四十年頃にはここで歌会も行われ、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱、斎藤茂吉、上田敏、石川啄木などの著名な文人が集いました。今回の展示ではその際に詠まれた歌が記された貴重な原稿(複製)を紹介します。
【平成20年 広報みしま 11月1日号 掲載記事】
今回は開館特別展「茂吉をめぐる歌人たち」についてご紹介します。
〈斎藤茂吉について〉
歌人であり精神科医であった斎藤茂吉は、明治十五(一八八二)年五月十四日、山形県南村山郡金瓶村(現・上山市)の農家・守谷伝右衛門の三男として生まれました。十四歳の時上京し、開成中学から旧制第一高校第三学部(現・東京大学医学部)へ進学します。
明治三十九(一九〇六)年には正岡子規門下の伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み始めます。短歌雑誌『阿羅々木』ではその中心的な歌人となりました。
大正二(一九一三)年、最初の歌集『赤光』を発表し、大きな反響を呼びました。翌年には斎藤てる子と結婚します。
その後、長崎医学専門学校での教授、欧州留学、養父が創設した青山脳病院の全焼と再建など、目まぐるしい時期を送りますが、大正十五(一九二六)年には歌人・島木赤彦の死去にともない『アララギ』の編集発行人となりました。
昭和二十(一九四五)年には、故郷の山形に疎開し、二年あまりを過ごした後東京に戻り、昭和二十八(一九五三)年二月二十五日、新宿大京町の自宅で七十年の生涯を閉じました。
展示では各種資料や写真パネルを使って茂吉について紹介します。
文化勲章受章時の斉藤茂吉
〈アララギ〉
『アララギ』は日本を代表する短歌雑誌です。明治四十一(一九〇八)年、伊藤左千夫を中心に『阿羅々木』として創刊されました。翌年には『アララギ』と改題され、正岡子規門下の歌人らによる根岸短歌会の機関誌となりました。生活に密着した写実的な歌風が特徴です。今回の展示では茂吉自筆の『アララギ』編集原稿をご覧いただけます。
〈観潮楼歌会〉
森鷗外の居宅(東京都文京区千駄木)は「観潮楼」と呼ばれ、明治文壇の社交場でした。明治四十年頃にはここで歌会も行われ、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱、斎藤茂吉、上田敏、石川啄木などの著名な文人が集いました。今回の展示ではその際に詠まれた歌が記された貴重な原稿(複製)を紹介します。
【平成20年 広報みしま 11月1日号 掲載記事】