(第260号)駅弁のいま・むかし (平成22年1月1日号)
今回は、富士・沼津・三島 3市博物館共同企画展「レール&ロード」(平成21年12月6日から平成22年2月21日)に合わせ、旅の楽しみの一つ駅弁について紹介します。
駅弁の名称は、「駅売り弁当」、「駅弁当」の略称が愛称化されたもので、駅構内で販売される弁当のことです。駅弁の最初は諸説ありますが、明治十八年(一八八五)、上野、宇都宮間の日本鉄道(日本初の私鉄)が開通した時、宇都宮駅で竹の皮包みの握り飯を販売したのがはじまりと言われています。
三島・沼津で最初に駅弁を販売したのは桃中軒(本社・沼津市)です。桃中軒が創業を開始したのは、東海道線の全通開通から二年後の明治二十四年(一八九一)です。沼津駅弁の第一号は、おにぎりと沢庵を竹の皮で包んだもので、一つ五銭でした。当時五銭では、化粧石鹸が四個買えました。沼津駅では機関車を付け替える時間があったため、駅のホームや車両の窓から駅弁を求めるたくさんの人と売り子とのやりとりでにぎわったと言われています。三島駅では、昭和三十七年(一九六二)に駅構内に三島支店が、続いて昭和四十四年(一九六九)の新幹線開通に伴い、新幹線三島駅待合室およびホームに売店が開設されました。
桃中軒の駅弁は、地域の歴史に触れるものや学校や商工会議所と共同で開発したものなどあります。
三島名物の鰻を使用した駅弁「清流うな重」は、三島の清流、富士山の伏流水で鰻の泥をきれいに吐かせ、独自開発の甘ダレをかけ、「冷めても軟らかいうな重」として平成十七年(二〇〇五)に誕生しました。鰻を使った駅弁は、昭和中期から販売しています。
また、三島商工会議所と共同開発した駅弁「頼朝公旗挙げ御膳」があります。源頼朝にまつわる言い伝えや、エピソードを徹底的に研究し、源頼朝ゆかりの食材と縁起物にこだわった駅弁です。値段も治承四年(一一八〇)三島で旗挙げした年にちなみ、千百八十円で販売しています。期間は、八月八日~十七日までの限定販売です。
「頼朝公旗揚げ御膳」(株)桃中軒提供
駅弁の中身や観光地を想像させる掛紙(包装紙)は、とても大切な役割です。その時代の印刷技術や客のニーズによって、日々変化しています。左記の掛紙の写真は、昭和四十四年(一九六九)のもので、三嶋大社の鳥居と農兵節の歌詞と富士山の中に松並木が描かれています。値段は二百円でした。
「特製お好み弁当掛紙」(株)桃中軒提供
【平成22年 広報みしま 1月1日号 掲載記事】
駅弁の名称は、「駅売り弁当」、「駅弁当」の略称が愛称化されたもので、駅構内で販売される弁当のことです。駅弁の最初は諸説ありますが、明治十八年(一八八五)、上野、宇都宮間の日本鉄道(日本初の私鉄)が開通した時、宇都宮駅で竹の皮包みの握り飯を販売したのがはじまりと言われています。
三島・沼津で最初に駅弁を販売したのは桃中軒(本社・沼津市)です。桃中軒が創業を開始したのは、東海道線の全通開通から二年後の明治二十四年(一八九一)です。沼津駅弁の第一号は、おにぎりと沢庵を竹の皮で包んだもので、一つ五銭でした。当時五銭では、化粧石鹸が四個買えました。沼津駅では機関車を付け替える時間があったため、駅のホームや車両の窓から駅弁を求めるたくさんの人と売り子とのやりとりでにぎわったと言われています。三島駅では、昭和三十七年(一九六二)に駅構内に三島支店が、続いて昭和四十四年(一九六九)の新幹線開通に伴い、新幹線三島駅待合室およびホームに売店が開設されました。
桃中軒の駅弁は、地域の歴史に触れるものや学校や商工会議所と共同で開発したものなどあります。
三島名物の鰻を使用した駅弁「清流うな重」は、三島の清流、富士山の伏流水で鰻の泥をきれいに吐かせ、独自開発の甘ダレをかけ、「冷めても軟らかいうな重」として平成十七年(二〇〇五)に誕生しました。鰻を使った駅弁は、昭和中期から販売しています。
また、三島商工会議所と共同開発した駅弁「頼朝公旗挙げ御膳」があります。源頼朝にまつわる言い伝えや、エピソードを徹底的に研究し、源頼朝ゆかりの食材と縁起物にこだわった駅弁です。値段も治承四年(一一八〇)三島で旗挙げした年にちなみ、千百八十円で販売しています。期間は、八月八日~十七日までの限定販売です。
「頼朝公旗揚げ御膳」(株)桃中軒提供
駅弁の中身や観光地を想像させる掛紙(包装紙)は、とても大切な役割です。その時代の印刷技術や客のニーズによって、日々変化しています。左記の掛紙の写真は、昭和四十四年(一九六九)のもので、三嶋大社の鳥居と農兵節の歌詞と富士山の中に松並木が描かれています。値段は二百円でした。
「特製お好み弁当掛紙」(株)桃中軒提供
【平成22年 広報みしま 1月1日号 掲載記事】