(第266号)伊豆山中城図 (平成22年7月1日号)
収蔵品展「三島宿と箱根西坂」(平成22年7月3日から8月29日)に併せ、今回は館蔵資料である「伊豆山中城図」を紹介します。
「史跡山中城跡」は、三島市街地の東方、箱根西ろくの標高五八〇メートルに位置します。山中城は戦国時代末期の城郭で、小田原に本拠を持ち関東地方をその領土とした後北条氏によって築城されました。この城は、箱根西ろくの尾根を利用して築城されており、その範囲は、東西一・七キロメートル、南北二・六キロメートルにおよび、面積は約二十万平方メートルと推定されています。山中城跡からは駿河湾、三島・沼津の平野など、伊豆地方北部から駿河地方一帯が眺望され、小田原と三島のほぼ中間で軍事・交通の要衝の地に位置していることがわかります。創築年代は明らかではありませんが、永禄十二年(一五六九)七月二日付「信玄書状写」に武田軍の山中城、韮山城攻撃の記事があることから、戦国時代末期の永禄十年(一五六七)ころ、小田原城の西方防御の拠点をなす国境警備の城として築城されたものと考えられています。
山中城にはいくつかの関係図面が存在します。現在確認されている最も古いものは、広島市立中央図書館浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』一七七枚のうちの一枚「伊豆山中城」です。この絵図面は天和三年(一六八三)ころに作図されたものと思われます。
郷土資料館所蔵の『伊豆山中城図』は、残念ながら作成年月日や作成者が記されていませんので詳細は不明です。しかしながら静岡市の個人が所蔵する江戸時代中期の作図とされる『伊豆国山中城』と内容が酷似していることから、同時期に作成されたものではないかと考えられます。本図には城の土塁や櫓、建物、曲輪(城内で区 画された場所)内面積、道、周囲の自然景観である山や谷、方位、そして天正十八年(一五九〇)山中城合戦時の豊臣軍の布陣などがカラーで描かれています。北側には「家康公(徳川家康)」西側には「太閤様(豊臣秀吉)」「山内対馬守(山内一豊)」南側にも豊臣方の武将の名が見え、合戦の際には山中城が豊臣方により完全に包囲されていたことが分かります。
山中城の合戦では、七万余人に達する圧倒的な攻撃力を有する豊臣軍の前に、城主、松田康長以下四千人の北条軍は短時間で壊滅し、落城、以後廃城となってしまいました。
「伊豆山中城図」
【平成22年 広報みしま 7月1日号 掲載記事】
「史跡山中城跡」は、三島市街地の東方、箱根西ろくの標高五八〇メートルに位置します。山中城は戦国時代末期の城郭で、小田原に本拠を持ち関東地方をその領土とした後北条氏によって築城されました。この城は、箱根西ろくの尾根を利用して築城されており、その範囲は、東西一・七キロメートル、南北二・六キロメートルにおよび、面積は約二十万平方メートルと推定されています。山中城跡からは駿河湾、三島・沼津の平野など、伊豆地方北部から駿河地方一帯が眺望され、小田原と三島のほぼ中間で軍事・交通の要衝の地に位置していることがわかります。創築年代は明らかではありませんが、永禄十二年(一五六九)七月二日付「信玄書状写」に武田軍の山中城、韮山城攻撃の記事があることから、戦国時代末期の永禄十年(一五六七)ころ、小田原城の西方防御の拠点をなす国境警備の城として築城されたものと考えられています。
山中城にはいくつかの関係図面が存在します。現在確認されている最も古いものは、広島市立中央図書館浅野文庫所蔵の『諸国古城之図』一七七枚のうちの一枚「伊豆山中城」です。この絵図面は天和三年(一六八三)ころに作図されたものと思われます。
郷土資料館所蔵の『伊豆山中城図』は、残念ながら作成年月日や作成者が記されていませんので詳細は不明です。しかしながら静岡市の個人が所蔵する江戸時代中期の作図とされる『伊豆国山中城』と内容が酷似していることから、同時期に作成されたものではないかと考えられます。本図には城の土塁や櫓、建物、曲輪(城内で区 画された場所)内面積、道、周囲の自然景観である山や谷、方位、そして天正十八年(一五九〇)山中城合戦時の豊臣軍の布陣などがカラーで描かれています。北側には「家康公(徳川家康)」西側には「太閤様(豊臣秀吉)」「山内対馬守(山内一豊)」南側にも豊臣方の武将の名が見え、合戦の際には山中城が豊臣方により完全に包囲されていたことが分かります。
山中城の合戦では、七万余人に達する圧倒的な攻撃力を有する豊臣軍の前に、城主、松田康長以下四千人の北条軍は短時間で壊滅し、落城、以後廃城となってしまいました。
「伊豆山中城図」
【平成22年 広報みしま 7月1日号 掲載記事】