(第268号)-名士の社交クラブ- 階楽園泉頭館 (平成22年9月1日号)
今月は収蔵品展「楽寿園」(平成二十二年九月十八日から十二月五日)に併せ、明治時代の小浜の地に計画されていた階楽園泉頭館を紹介します。
小松宮彰仁親王が三島に別邸を造営される直前の明治二十年(一八八七)ころ、風光明媚な小浜の地を生かして名士の社交クラブを建設しようとする気運が三島町の中で高まりました。そして、有志による団体・三島倶楽部が「階楽園泉頭館」を計画します。小浜の地約二千坪を石垣で囲み、庭園と社交施設を建設するといったもの でした。
階楽園泉頭館予定地
創立緒言下書きなどによれば、三島倶楽部の創立は明治二十年四月ころだと推定されますが、翌二十一年には「階楽園泉頭館創立緒言」が関係各位に配布されているようです。また倶楽部加入者も世古六太夫、花島兵右衛門など当時の三島町を代表する名士が名を連ねていることから、同館に対する期待の大きさが伺えす。
階楽園泉頭館創立緒言
創立緒言を見ると、その第一条には「東京芝公園内紅葉館ニ模倣シ大凡会員五百名ト定メ」とあり、泉頭館は当時日本でも屈指の会員制高級サロンであった東京・芝公園の紅葉館に倣ったようです。また資本金の条には「本館ノ資本金ハ二千五百円ト定メ之ヲ五百株ニ分ツ一株五円ト定ム」とあり、米価換算で現在の五、六万円相当を一株として募っていました。
こうして着々と準備が進められていた階楽園泉頭館ですが、明治二十三年に小松宮彰仁親王がこの地に別邸を造営することとなり、館の計画そのものが余儀なく変更されます。
その詳しい経緯については不明ですが、賛同者の一人である世古六太夫の自伝『松翁六十路の夢』には「小浜の地に倶楽部を創立し泉頭館と号して設計し有志者を誘導中適ま小浜の地は小松宮殿下の頻りに愛せらるゝ所となりて(中略)協議賛成を得て余が家屋内に設けたる。則ち岳陽 倶楽部なり」とあることから、大中島(現・本町)の旧世古本陣家屋を使用し「岳陽倶楽部」として新たに明治二十三年一月にスタートしました。
しかし、明治二十二年東海道線開通時には三島に駅が設置されなかったため、その煽りを受けて来客は減少し、その他諸般の事情により明治二十九年ころには廃してしまった、と同書には記されています。
【平成22年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】
小松宮彰仁親王が三島に別邸を造営される直前の明治二十年(一八八七)ころ、風光明媚な小浜の地を生かして名士の社交クラブを建設しようとする気運が三島町の中で高まりました。そして、有志による団体・三島倶楽部が「階楽園泉頭館」を計画します。小浜の地約二千坪を石垣で囲み、庭園と社交施設を建設するといったもの でした。
階楽園泉頭館予定地
創立緒言下書きなどによれば、三島倶楽部の創立は明治二十年四月ころだと推定されますが、翌二十一年には「階楽園泉頭館創立緒言」が関係各位に配布されているようです。また倶楽部加入者も世古六太夫、花島兵右衛門など当時の三島町を代表する名士が名を連ねていることから、同館に対する期待の大きさが伺えす。
階楽園泉頭館創立緒言
創立緒言を見ると、その第一条には「東京芝公園内紅葉館ニ模倣シ大凡会員五百名ト定メ」とあり、泉頭館は当時日本でも屈指の会員制高級サロンであった東京・芝公園の紅葉館に倣ったようです。また資本金の条には「本館ノ資本金ハ二千五百円ト定メ之ヲ五百株ニ分ツ一株五円ト定ム」とあり、米価換算で現在の五、六万円相当を一株として募っていました。
こうして着々と準備が進められていた階楽園泉頭館ですが、明治二十三年に小松宮彰仁親王がこの地に別邸を造営することとなり、館の計画そのものが余儀なく変更されます。
その詳しい経緯については不明ですが、賛同者の一人である世古六太夫の自伝『松翁六十路の夢』には「小浜の地に倶楽部を創立し泉頭館と号して設計し有志者を誘導中適ま小浜の地は小松宮殿下の頻りに愛せらるゝ所となりて(中略)協議賛成を得て余が家屋内に設けたる。則ち岳陽 倶楽部なり」とあることから、大中島(現・本町)の旧世古本陣家屋を使用し「岳陽倶楽部」として新たに明治二十三年一月にスタートしました。
しかし、明治二十二年東海道線開通時には三島に駅が設置されなかったため、その煽りを受けて来客は減少し、その他諸般の事情により明治二十九年ころには廃してしまった、と同書には記されています。
【平成22年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】