(第301号)寺子屋や漢学塾から受け継がれた三島の教育 (平成25年6月1日号)
今回は、リニューアル後の「近代の教育」に関する内容をご紹介します。
伊豆地方は、幕府の直轄地と旗本の知行地が大部分で大名の居城はなく、藩校はありませんでした。そのため、幕末における三島の教育は「寺子屋」や私塾の「漢学塾」によって行われ、明治五年(一八七二)学制が施行され小学校ができるまで三島の教育の中心でした。
寺子屋では、「読み・書き・そろばん」といった社会生活の基礎知識を主に学びます。寺子屋に入ることを寺入りといい、親に連れられ、机・硯箱を新調して持参しました。また、その時ほかの生徒にお菓子を配ったそうです。教室は主に、社寺・師匠の自宅を使用し、生徒は年齢の違う男女の児童が通っていました。三島には、寺子屋が数カ所存在していたことが判明しています。
下の絵は、江戸後期に活躍した、渡辺崋山が描いた代表的な寺子屋風景『一掃百態』です。
頬づえをついて筆をくわえたり、取っ組み合いをしたり様々な子どもたちがいます。三島の寺子屋もこのような風景だったのかもしれません。
また、初等教育を終えた子弟を教育する「漢学塾」では、三島宿の北の端にあったとされる並河五一(誠所)の「仰止館」、彼の弟子、秋山富南の「秋山塾」や日の出町にあった福井雪水の「千之塾」など東海道に名をはせた塾もあり、地域で活躍する多くの人材を育てました。
三島にはこのほかにも彼らの門弟たちなどが開いた寺子屋や漢学塾があり、設立者の多くが師弟関係で結ばれています。三島では「人を育てる」という教育の本質がすでに近世において確立されていたのではないでしょうか。
この後、明治に町の有志たちが協議し、「開心庠舎」という私塾が設立され三島初の小学校「三島學」へと発展していきます。現代より生活に密着した近世の寺子屋や漢学塾が近代教育への礎を築き、郷土の優秀な人材を育成、輩出していきました。
【平成25年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】
伊豆地方は、幕府の直轄地と旗本の知行地が大部分で大名の居城はなく、藩校はありませんでした。そのため、幕末における三島の教育は「寺子屋」や私塾の「漢学塾」によって行われ、明治五年(一八七二)学制が施行され小学校ができるまで三島の教育の中心でした。
寺子屋では、「読み・書き・そろばん」といった社会生活の基礎知識を主に学びます。寺子屋に入ることを寺入りといい、親に連れられ、机・硯箱を新調して持参しました。また、その時ほかの生徒にお菓子を配ったそうです。教室は主に、社寺・師匠の自宅を使用し、生徒は年齢の違う男女の児童が通っていました。三島には、寺子屋が数カ所存在していたことが判明しています。
下の絵は、江戸後期に活躍した、渡辺崋山が描いた代表的な寺子屋風景『一掃百態』です。
頬づえをついて筆をくわえたり、取っ組み合いをしたり様々な子どもたちがいます。三島の寺子屋もこのような風景だったのかもしれません。
また、初等教育を終えた子弟を教育する「漢学塾」では、三島宿の北の端にあったとされる並河五一(誠所)の「仰止館」、彼の弟子、秋山富南の「秋山塾」や日の出町にあった福井雪水の「千之塾」など東海道に名をはせた塾もあり、地域で活躍する多くの人材を育てました。
三島にはこのほかにも彼らの門弟たちなどが開いた寺子屋や漢学塾があり、設立者の多くが師弟関係で結ばれています。三島では「人を育てる」という教育の本質がすでに近世において確立されていたのではないでしょうか。
この後、明治に町の有志たちが協議し、「開心庠舎」という私塾が設立され三島初の小学校「三島學」へと発展していきます。現代より生活に密着した近世の寺子屋や漢学塾が近代教育への礎を築き、郷土の優秀な人材を育成、輩出していきました。
【平成25年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】