(第312号)住民学習が原動力 石油コンビナート反対運動 (平成26年5月1日号)

 今から五十年前の昭和三十九年(一九六四)、三島は石油化学コンビナート反対運動の渦中にありました。五月には松村調査団による公害調査の中間発表や市民大会があり、建設計画の趨勢が中止へ向かって多く傾きました。そこで今回はこのコンビナート反対運動を紹介します。  

 昭和三十八年十二月に三島市、沼津市、清水町にまたがる石油化学コンビナート建設計画が県より発表されました。三島では中郷地区に石油精製工場が建設される計画でした。  

 計画発表後、住民の間で大きな反対運動がおこり、その結果、建設計画は撤回されます。日本の環境運動の中では地元の反対運動がその目標を達成しためずらしい事例です。  

 この運動の特徴の一つは婦人会や町内会をはじめ市民各層が参加したことです。建設予定地の中郷地区はもちろん市街地の商店街なども協力しています。また、多くの女性が集会や学習会に加わり、デモ行進の先頭に立ちました。写真①は安久町内会の幟旗です。  

写真1幟旗
写真1幟旗

 もう一つの大きな特徴は、小さな学習会や現地視察を重ねていき、その結果をもとにして公害の恐れを地域住民同士が共有し、反対運動を展開していったという点です。学習会の講師には遺伝学研究所や高校などの研究者や教師、地元の医師などが当たり、多角的な視点からの学習が進められました。  

 住民の学習が大きな位置を占めた反対運動の中で、地元では遺伝学研究所の松村博士を代表とする調査団が組織されました。調査は大気汚染、公衆衛生、地下水くみ上げなど多岐にわたり、調査結果は地域にとって重要な判断材料となりました。  

 この松村調査団が公害の恐れありとした中間報告を発表したのが五月十八日、さらに五月二十三日夜には市公会堂(現市民文化会館)において「石油コンビナート反対市民大会」が開かれ、一、五〇〇名が参加、ここで三島市長による計画反対の意思が表明されました。  

写真2三島民報 昭和39年5月25日号
写真2三島民報 昭和39年5月25日号
 その後も反対運動は秋まで続き、最終的に建設計画は撤回されました。このできごとは三島の水や空気が守られたという点で重要であるだけでなく、多数の住民が自ら学習してまちづくりの方向性を決定した事例としても大きな意味を持っているのではないでしょうか。
【平成26年 広報みしま 5月1日号 掲載記事】