(第323号)安政東海地震 三島宿の被害状況(平成27年4月1日号)
嘉永七年十一月四日( 太陽暦では一八五四年十二月二十三日)午前九時頃遠州灘でマグニチュード八・四と推定される大規模な地震(安政東海地震)が発生します。
この地震により、関東から近畿、特に沼津から伊勢湾にかけての沿岸が被害に遭い、津波が房総半島南岸から四国南岸までを襲いました。そして、三十二時間後の翌五日午後四時頃、南海道沖でマグニチュード八・四の大地震(安政南海地震)が発生し、被害は中部から九州まで及びました。立て続けに起こった二つの地震・津波による被害は家屋の倒壊や焼失が約三万軒、死者は二千人から三千人に達したと考えられています。
三島宿は、安政東海地震による強い震動と火災のため、ほとんどの建物が被災し、宿場全体が壊滅的な被害にあっています。宿内の被害状況は、問屋世古六太夫から幕府の道中奉行へ提出した「地震二付道中御奉行所江御注進之写」(写真①)から分かります。宿内総家数一〇七八軒に対し、潰れた家は九八六軒で家屋の九一パーセントが全壊しています。
写真1「地震二付道中御奉行所江御注進之写」
伊勢参りに行く途中で被災した下総国の国学者の体験記「地震道中記」によると、三嶋大社前の丸屋甚兵衛の孫娘の救済劇や、宿内の被災状況が描かれ、大きな被害を受けながらも宿内での死者は一人もなかったことが分かります。この地震により、三嶋大社の境内、末社なども潰れています。(写真②)
写真2「地震二付道中御奉行所江御注進之写」三島明神の被害状況記載部分
地震から三年後の安政四年、この惨状を目にした日米修好通商条約締結のため日本を訪れていた初代駐日領事タウンゼント・ハリスは、大社に参詣し金二両二分の寄付をしています(『日本滞在記』)
地震発生の翌月、問屋世古六太夫、朝日猪兵衛らが担当役人へ提出した「御尋二付申上候書付」によると、宿泊は、家が潰れているが裏屋などを使用するなら一応は可能となっており、継立(宿駅で人馬を替え、貨客を送り継ぐこと)は発災から十四日後の十八日からはすべてが滞りなく行われ、宿場機能の復旧は思いのほか早かった ようです。
【広報みしま 平成27年4月1日号掲載記事】
この地震により、関東から近畿、特に沼津から伊勢湾にかけての沿岸が被害に遭い、津波が房総半島南岸から四国南岸までを襲いました。そして、三十二時間後の翌五日午後四時頃、南海道沖でマグニチュード八・四の大地震(安政南海地震)が発生し、被害は中部から九州まで及びました。立て続けに起こった二つの地震・津波による被害は家屋の倒壊や焼失が約三万軒、死者は二千人から三千人に達したと考えられています。
三島宿は、安政東海地震による強い震動と火災のため、ほとんどの建物が被災し、宿場全体が壊滅的な被害にあっています。宿内の被害状況は、問屋世古六太夫から幕府の道中奉行へ提出した「地震二付道中御奉行所江御注進之写」(写真①)から分かります。宿内総家数一〇七八軒に対し、潰れた家は九八六軒で家屋の九一パーセントが全壊しています。
写真1「地震二付道中御奉行所江御注進之写」
伊勢参りに行く途中で被災した下総国の国学者の体験記「地震道中記」によると、三嶋大社前の丸屋甚兵衛の孫娘の救済劇や、宿内の被災状況が描かれ、大きな被害を受けながらも宿内での死者は一人もなかったことが分かります。この地震により、三嶋大社の境内、末社なども潰れています。(写真②)
写真2「地震二付道中御奉行所江御注進之写」三島明神の被害状況記載部分
地震から三年後の安政四年、この惨状を目にした日米修好通商条約締結のため日本を訪れていた初代駐日領事タウンゼント・ハリスは、大社に参詣し金二両二分の寄付をしています(『日本滞在記』)
地震発生の翌月、問屋世古六太夫、朝日猪兵衛らが担当役人へ提出した「御尋二付申上候書付」によると、宿泊は、家が潰れているが裏屋などを使用するなら一応は可能となっており、継立(宿駅で人馬を替え、貨客を送り継ぐこと)は発災から十四日後の十八日からはすべてが滞りなく行われ、宿場機能の復旧は思いのほか早かった ようです。
【広報みしま 平成27年4月1日号掲載記事】