三島市の歌
三島市歌
三島市歌(三島町歌) 作詞 大岡 博 作曲 堀内敬三
一、天つ日の輝く宮居
富士が根をそがひに負ひて
真清水のほとりに立てり
あゝ我らが守り 我らが鎮
二、たちならぶ 伊豆の山々
碧なす泉のあたり
古の文化つどひぬ
あゝ国府のあとぞ我らが郷里
三、青雲の空の真下に
うち建てむ我らが都
永遠に 栄えむ都
あゝ麗しの街 我らが三島
一、天つ日の輝く宮居
富士が根をそがひに負ひて
真清水のほとりに立てり
あゝ我らが守り 我らが鎮
二、たちならぶ 伊豆の山々
碧なす泉のあたり
古の文化つどひぬ
あゝ国府のあとぞ我らが郷里
三、青雲の空の真下に
うち建てむ我らが都
永遠に 栄えむ都
あゝ麗しの街 我らが三島
三島町歌、三島市歌について
三島町歌は、昭和6年に三島町が町歌の作成を計画し、大岡博作詞、堀内敬三作曲によって作られた歌です。
作詞者の大岡博氏は短歌雑誌「菩提樹」の創設者である歌人であり、また、三島市の名誉市民である大岡信氏の父でもあります。
三島町歌の作成経緯については、大岡信氏の著書に、町が公募したものに父博氏が応募、当選したとの記述があるほか、三島町に請われて作成したとの説もあり、当時の記録が残っていないため明確ではありません。
作成年についても昭和6年に作詞、翌年に完成と「菩提樹 大岡博追悼号」の年表に記述されています。歌詞の作成は昭和6年、「三島町歌」の完成は昭和7年というのが正しいのかもしれません。
また、昭和16年に錦田村との合併により、三島市となった際に、町歌も「三島市歌」に改められたと言われていますが、公文書としては記録が残っていません。曲名を変えることを大岡博氏に許可を申し入れ、承諾を得たとも言われています。
これまで、作成や曲名変更の経緯が不明確であることや、条例等による制定の手続きが取られていないことから、ホームページへの掲載をしていませんでした。
しかし、三島町が作成の主体であったことは間違いないと判断できること、また三島を代表する文化人の一人である大岡博氏の作詞であることから、これまでの経緯を含めてホームページへ掲載することにしました。
作詞者の大岡博氏は短歌雑誌「菩提樹」の創設者である歌人であり、また、三島市の名誉市民である大岡信氏の父でもあります。
三島町歌の作成経緯については、大岡信氏の著書に、町が公募したものに父博氏が応募、当選したとの記述があるほか、三島町に請われて作成したとの説もあり、当時の記録が残っていないため明確ではありません。
作成年についても昭和6年に作詞、翌年に完成と「菩提樹 大岡博追悼号」の年表に記述されています。歌詞の作成は昭和6年、「三島町歌」の完成は昭和7年というのが正しいのかもしれません。
また、昭和16年に錦田村との合併により、三島市となった際に、町歌も「三島市歌」に改められたと言われていますが、公文書としては記録が残っていません。曲名を変えることを大岡博氏に許可を申し入れ、承諾を得たとも言われています。
これまで、作成や曲名変更の経緯が不明確であることや、条例等による制定の手続きが取られていないことから、ホームページへの掲載をしていませんでした。
しかし、三島町が作成の主体であったことは間違いないと判断できること、また三島を代表する文化人の一人である大岡博氏の作詞であることから、これまでの経緯を含めてホームページへ掲載することにしました。