(第334号)広小路と三島宿の火事(平成28年3月1日号)

三島は東海道五十三次の一つに数えられる宿場町でした。三嶋大社前の大通りは江戸時代の東海道にあたり、この両側には旅籠や店など多くの家々が軒を連ね、大変栄えました。しかし、このような街並みはひとたび火災が発生するとすぐさま大火災を引き起こす災害に弱い街でもありました。  

「三島宿之古記録」などによると、江戸時代の初めだけでも慶安元年(一六四八)、延宝元年(一六七三)、貞享二年(一六八五)、元禄七年(一六九四)に大火災が起こっています。  

特に貞享二年の火災は現在の清水町伏見から出火し、折からの西風に煽られて大きな火災となりました。このときは自力での復興ができず、幕府から二千両もの資金を無利子で借り入れています。そのほかの火事の際にも慶安の火災後に六三〇両、延宝の火災後に二五〇両、元禄の火災後に三一六・五両を幕府から借り入れています。  

度重なる火災発生を受けて三島宿では対策が講じられます。三島宿の火災は強い西風にあおられて被害が拡大することが多いのが特徴でした。そこで元禄一〇年(一六九七)、宿内の西の方に位置する六反田町の街道の両側に幅約五〇メートルの広小路(火災の拡大を防ぐための空き地)を設けました。さらにそこに土手を築いて、土手の上には竹の矢来(柵のようなもの)を設置しました。この土手は喰い違い土手と呼ばれるもので、街道の南北の土手が食い違うようにせり出しています。土手の設置にあたっては大中島町(現在の広小路町ほか)など広小路の東側の住民が従事しました。これが、現在でも使われている「広小路」という地名の由来となっています。  

この様に土手まで築いて大規模な火災対策を行った三島宿ですが、この土手がその後、問題になります。広小路より西の住民から、広小路に土手があるために自分たちの住んでいるところが三島宿の外側にあるように見えるではないか、との不満の声が上がってしまいました。彼らもほかの住民と変わらず伝馬役(街道を行き来する公的な人や荷物を運ぶ仕事)などの義務は果たしていたわけですから、当然と言えば当然の主張です。また、想像するに、旅人相手の商売などで不利になっていたということもあったのかもしれません。  

そこで、土手が築かれてから十数年たった正徳元年(一七一一)、三島宿の西の境界にあたる境川をまたぐ千貫樋の隣に喰い違い土手を移し、広小路には小さな土手を作る、ということになりました。  

広小路と喰い違い土手はともに三島宿の景観の一部としてさまざまな絵図にも描かれています。

喰い違い土手

【広報みしま 平成28年3月1日号掲載記事】