ふるさとの人物ゆかりの地2 並河五一(誠所) (平成26年5月1日号)
享保9年(1724)並河五一は、三嶋大社神主矢田部休翁(きゅうおう)の誘いにより江戸から三島宿を訪れ、漢学塾「仰止(ぎょうし)館」を開きます。
誠所の学問の幅は広く儒学、歴史、兵法、和歌などに及びました。門人は土地の指導者の子弟が多く、『 豆州志稿』編纂の秋山富南を輩出しました。墓碑には四十三人の門人の名が刻まれ、恩情を受けた師を慕う碑文が刻まれています。また、門人ら協力のもと六年の歳月をかけ五畿内(河内・摂津・大和・和泉・山城)を歴遊し『五畿内志』を編纂します。
誠所希望のもと富士のよく見える三島宿近郊の金堀塚(現三島北高内)に葬られましたが、大正八年野戦重砲兵旅団誘致により、本覚寺に移転しました。
【広報みしま 平成26年5月1日号掲載記事】
誠所の学問の幅は広く儒学、歴史、兵法、和歌などに及びました。門人は土地の指導者の子弟が多く、『 豆州志稿』編纂の秋山富南を輩出しました。墓碑には四十三人の門人の名が刻まれ、恩情を受けた師を慕う碑文が刻まれています。また、門人ら協力のもと六年の歳月をかけ五畿内(河内・摂津・大和・和泉・山城)を歴遊し『五畿内志』を編纂します。
誠所希望のもと富士のよく見える三島宿近郊の金堀塚(現三島北高内)に葬られましたが、大正八年野戦重砲兵旅団誘致により、本覚寺に移転しました。
【広報みしま 平成26年5月1日号掲載記事】