三島の歌碑・句碑9 いざともに 穂麦くらはん 草枕 はせを (平成21年9月1日号)
広小路にある連馨(れんけい)寺には芭蕉の遺髪(いはつ)を埋葬したと伝えられる芭蕉老翁墓と彫られた碑があります。この碑は、安永7年(1778)10月に六花庵乙児〈ろっかあんおつじ(大島 蓼太)(りょうた)〉の高弟官鼠(かんそ)が芭蕉供養のために建立したもので、碑の左面にこの一句が刻まれています。
『野晒紀行(のざらしきこう)』にあるこの句の前書きに「伊豆の国蛭(ひる)が小島の桑門(そうもん)、 これも去年の秋より行脚しけるに、わが名を聞きて、草の枕の道連れにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ」とあり、蛭ケ小島(現伊豆の国市)の僧侶斎部路通(いんべろつう)と尾張〈おわり(愛知県)〉まで同行した折の句とわかります。“さあ、一緒に麦畑の穂麦でも喰(く)らう覚悟で乏しい旅を続けようではないか”という気概を読み取ることができます。
▲芭蕉墓碑(連馨寺境内)
【広報みしま 平成21年9月1日号掲載記事】
『野晒紀行(のざらしきこう)』にあるこの句の前書きに「伊豆の国蛭(ひる)が小島の桑門(そうもん)、 これも去年の秋より行脚しけるに、わが名を聞きて、草の枕の道連れにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ」とあり、蛭ケ小島(現伊豆の国市)の僧侶斎部路通(いんべろつう)と尾張〈おわり(愛知県)〉まで同行した折の句とわかります。“さあ、一緒に麦畑の穂麦でも喰(く)らう覚悟で乏しい旅を続けようではないか”という気概を読み取ることができます。
▲芭蕉墓碑(連馨寺境内)
【広報みしま 平成21年9月1日号掲載記事】