甲州と三島を繋(つな)ぐ道 佐野街道 (平成19年1月1日号)
三嶋大社西側を北に向かう佐野街道は、別名甲州街道ともいわれ、甲州(現山梨県)との交流・交易や、富士登山、足柄越えの道として古くから利用されてきました。消防署北分遣所(ぶんけんじょ)付近の鎧坂(よろいざか)は、武田信玄が三島侵攻の際、洪水で鎧を流された事に由来するともいわれますが、その武田軍も甲州街道などを通り、伊豆・駿河へ度々攻めてきたようです。
明治時代には東海道本線の佐野駅(現裾野駅)と三島町を結ぶ馬車道として利用されました。また、大正時代になると野戦重砲兵(やせんじゅうほうへい)連隊の設置により、18メートルの幅で街道が整備されました。現在日大前の学園通りとなっているイチョウ並木はこの時のものです。
昭和30年には県道21号三島裾野線となりましたが、甲州と三島を繋ぐ役割は今も変わりありません。
【広報みしま 平成19年1月1日号掲載記事】
明治時代には東海道本線の佐野駅(現裾野駅)と三島町を結ぶ馬車道として利用されました。また、大正時代になると野戦重砲兵(やせんじゅうほうへい)連隊の設置により、18メートルの幅で街道が整備されました。現在日大前の学園通りとなっているイチョウ並木はこの時のものです。
昭和30年には県道21号三島裾野線となりましたが、甲州と三島を繋ぐ役割は今も変わりありません。
【広報みしま 平成19年1月1日号掲載記事】