ふるさとの人物から7 瀧之本連水(たきのもとれんすい) (俳人、教育者) (平成16年10月1日号)
幕末から明治にかけて、伊豆に来た文人たちが必ず立ち寄り交流を深める場所、俳人の関所という意味で「俳関(はいかん)」と呼ばれていたのが伊豆佐野(三島市佐野)の瀧之本連水宅です。
天保3年(1832)佐野村の名主の家に誕生した連水は本名勝俣(かつまた)常久、通称猶右衛門(なおえもん)、芭蕉を敬愛して俳諧を好み、研鑚に努めました。師の種玉庵連山(れんざん)は「俳関」の扁額を連水に譲り、こののち勝俣家は多くの文人墨客で賑わい「東海道仮名(がな)関所」と呼ばれていました。
また連水は佐野に公立学校が出来ると、教員(授業生)となり、教育に情熱を傾け、佐野の人々の人望を集め続けます。
「日毎(ひごと)日毎 ふじ見て我は 老いにけり」『雲霧集』より は、連水晩年の句、今も勝俣家の前に雄大な富士がひろがります。
【広報みしま 平成16年10月1日号掲載記事】
天保3年(1832)佐野村の名主の家に誕生した連水は本名勝俣(かつまた)常久、通称猶右衛門(なおえもん)、芭蕉を敬愛して俳諧を好み、研鑚に努めました。師の種玉庵連山(れんざん)は「俳関」の扁額を連水に譲り、こののち勝俣家は多くの文人墨客で賑わい「東海道仮名(がな)関所」と呼ばれていました。
また連水は佐野に公立学校が出来ると、教員(授業生)となり、教育に情熱を傾け、佐野の人々の人望を集め続けます。
「日毎(ひごと)日毎 ふじ見て我は 老いにけり」『雲霧集』より は、連水晩年の句、今も勝俣家の前に雄大な富士がひろがります。
【広報みしま 平成16年10月1日号掲載記事】