ふるさとの人物から1 並河五一(なみかわごいち)の墓 (泉町、本覚寺) (平成16年4月1日号)
江戸時代、三島宿の人々は、人材を育てるために、何よりも教育が大事と考えていました。三顧(さんこ)の礼で迎え入れたのが地理学者として著名な並河五一です。
『五畿内誌(ごきないし)』を完成させた五一は漢学塾「仰止館(ぎょうしかん)」を開き多くの人材を育てます。その一人が『豆州誌稿』の編者、秋山富南(ふなん)です。
三島の風物を愛した五一は、宿の北に広がる溶岩台地をしばしば散策し、富士山から駿河湾まで見渡せる一本の松の根元を自らの墓所と定め、永眠しました。1738年のこと、三島北高校の地です。
時は移り、大正8年に野戦重砲兵連隊がこの一帯に移駐することとなり、五一の墓は移転させられ、本覚寺(泉町)に移されました。眺望を好んだ五一のために、三島町の人々は高く石垣を組み、遺徳を子孫に伝え続けています。
【広報みしま 平成16年4月1日号掲載記事】
『五畿内誌(ごきないし)』を完成させた五一は漢学塾「仰止館(ぎょうしかん)」を開き多くの人材を育てます。その一人が『豆州誌稿』の編者、秋山富南(ふなん)です。
三島の風物を愛した五一は、宿の北に広がる溶岩台地をしばしば散策し、富士山から駿河湾まで見渡せる一本の松の根元を自らの墓所と定め、永眠しました。1738年のこと、三島北高校の地です。
時は移り、大正8年に野戦重砲兵連隊がこの一帯に移駐することとなり、五一の墓は移転させられ、本覚寺(泉町)に移されました。眺望を好んだ五一のために、三島町の人々は高く石垣を組み、遺徳を子孫に伝え続けています。
【広報みしま 平成16年4月1日号掲載記事】