(第353号)徳川将軍の足跡―御殿地の石垣―(平成29年10月1日号)

 「三島は黒い石の町であった」と話すと驚かれる人も多いでしょう。現在のようにトラック輸送があまりかった昭和三○年(一九五五)ころまで、家の土台石、川の護岸、お屋敷の石垣などの石材として、小さな穴がぽつぽつ開いた、黒色の溶岩、通称「三島石」が至る所に見られました。しかし、安い石材やコンクリートが出回るようになると、三島石を掘り出す石工はいなくなり、石材として利用されることはなくなりました。  

 この三島石の石垣で、四百年近くびくともしない立派なものが市の中心部にひっそりと残っています。南本町、元社会保険三島病院が建っていた場所の東側の斜面(南の方)を囲む石垣です。

三島石の石垣
▲現在も残る石垣 

 これは徳川三代将軍家光公が元和九年(一六二三)将軍宣下を受けるために京へ上るとき、東海道の各地に将軍専用の御殿を築造させた跡の一部と伝えられています。  
 穴の少ない上質で大きな三島石ががっちり組まれており、将軍たちをしっかり守る堅固さがあります。  
 この御殿については、幕末に三島宿の役人が幕府に提出した当時の「御殿地絵図」に残っています。これによると、南側に本丸、その北側に二の丸があり、石垣に囲まれています。それぞれの東側から御殿川に向かう出入り口、大手(正門)が切られています。建物はありませんが本丸に井戸も描かれており、生活の跡がうかがわれます。

御殿地絵図
▲御殿地絵図  

 立派に建てられたであろう御殿、さて、家光公はどれくらい利用したのでしょうか。記録を探すと寛永三年(一六二六)と同十一年に三島に宿泊したことが分かっています。ところが、その後将軍の利用は見当たりま せん。江戸幕府の基盤が固まり、将軍が自ら上洛する必要がなくなったためと考えられています。  

 後に建物は取り毀され、明治(一八六八~)に入るとキツネやタヌキが住み着く寂しい場所となったようです。  

 明治三一年(一八九八)に豆相鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)が御殿地の本丸を横断する形で敷設されました。この時、御殿地の石垣の多くは鉄道の土台として転用され、御殿の様子は変わってしまいました。  

 わずかに残る石垣から、徳川将軍の威光と四百年の年月を想い描いてみてください。

【広報みしま 平成29年10月1日号掲載記事】