(第359号)駿豆電気鉄道による鉄道延長計画(平成30年4月1日号)
郷土資料館(楽寿園内)では、文化財ボランティアの皆さんと協働で、地域の古文書の整理・調査を進めています。今年度は、「贄川家(にえかわけ)文書」を主な対象としています。
贄川家は、清水町で江戸時代の名主や明治時代の清水村村長を務めた家で、明治から昭和にかけて俳人として活躍した贄川他石(にえかわ・たせき)が有名です。他石は本名を邦作といい、文化活動のほか政治・行政・経済といった多方面で活躍しました。また、三島~沼津間にチンチン電車の路線を敷いた、駿豆電気鉄道株式会社の立ち上げと経営に加わっています。今回は、この駿豆電気鉄道について紹介します。
駿豆電気鉄道は、明治三十九年(一九〇六)三島~沼津間に電気鉄道を開通させ、明治四十五年(一九一二)には伊豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線、当時は、三島~大仁間の営業)を買収します。この買収は、これまで鉄道事業の拡張を主眼として語られることが多かったのですが、株主総会の決議事項などを見ると、もう少し複合的なねらいがあったようです。
駿豆電気鉄道は、伊豆鉄道買収とセットで、沼津から伊豆西海岸を経由して大仁付近に至る路線と大仁から修善寺までの路線、さらに、湯ヶ島や伊東方面まで伸びる路線を計画していました。また、買収した伊豆鉄道を電気鉄道化するために、既に操業していた平木(函南町)の第一発電所に加え、梅木(伊豆市)に第二発電所を建設することを計画しています。駿豆電気鉄道は、鉄道会社として認識されることが多いのですが、電灯電力事業の収入は、鉄道事業の二倍の規模で、電気事業の拡張には常に高い関心を持っていました。
駿豆電気鉄道は、大正五年(一九一六)に経営難から富士水力電気に合併されますが、この鉄道延長・電気鉄道化計画は、合併直前まで実現に向けて進められていました。
このように、贄川邦作をはじめとする駿豆電気鉄道の経営層は、当時の最先端のインフラである鉄道と電気を地域に普及させ、地域社会の近代化を進めることに、高い志を持っていたことがうかがわれます。この高い志は、時に妥当な経営判断を妨げることもあり、最後は、他社に吸収されてしまいました。しかし、一度整備されたインフラは、所有者(社)が変わっても地域社会に存在し続けます。彼らの進めた事業は、成功と失敗を繰り返しつつ、地域社会の発展に大きく貢献したといってよいのではないでしょうか。
【広報みしま 平成30年4月1日号掲載記事】
贄川家は、清水町で江戸時代の名主や明治時代の清水村村長を務めた家で、明治から昭和にかけて俳人として活躍した贄川他石(にえかわ・たせき)が有名です。他石は本名を邦作といい、文化活動のほか政治・行政・経済といった多方面で活躍しました。また、三島~沼津間にチンチン電車の路線を敷いた、駿豆電気鉄道株式会社の立ち上げと経営に加わっています。今回は、この駿豆電気鉄道について紹介します。
駿豆電気鉄道は、明治三十九年(一九〇六)三島~沼津間に電気鉄道を開通させ、明治四十五年(一九一二)には伊豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線、当時は、三島~大仁間の営業)を買収します。この買収は、これまで鉄道事業の拡張を主眼として語られることが多かったのですが、株主総会の決議事項などを見ると、もう少し複合的なねらいがあったようです。
駿豆電気鉄道は、伊豆鉄道買収とセットで、沼津から伊豆西海岸を経由して大仁付近に至る路線と大仁から修善寺までの路線、さらに、湯ヶ島や伊東方面まで伸びる路線を計画していました。また、買収した伊豆鉄道を電気鉄道化するために、既に操業していた平木(函南町)の第一発電所に加え、梅木(伊豆市)に第二発電所を建設することを計画しています。駿豆電気鉄道は、鉄道会社として認識されることが多いのですが、電灯電力事業の収入は、鉄道事業の二倍の規模で、電気事業の拡張には常に高い関心を持っていました。
駿豆電気鉄道は、大正五年(一九一六)に経営難から富士水力電気に合併されますが、この鉄道延長・電気鉄道化計画は、合併直前まで実現に向けて進められていました。
このように、贄川邦作をはじめとする駿豆電気鉄道の経営層は、当時の最先端のインフラである鉄道と電気を地域に普及させ、地域社会の近代化を進めることに、高い志を持っていたことがうかがわれます。この高い志は、時に妥当な経営判断を妨げることもあり、最後は、他社に吸収されてしまいました。しかし、一度整備されたインフラは、所有者(社)が変わっても地域社会に存在し続けます。彼らの進めた事業は、成功と失敗を繰り返しつつ、地域社会の発展に大きく貢献したといってよいのではないでしょうか。
▲駿豆電気鉄道営業区域図(大正二年五月)赤い線が湯ヶ島までの鉄道延長計画
【広報みしま 平成30年4月1日号掲載記事】