(第367号)近代三島をつくった人々(将軍家茂の上洛)(平成30年12月1日号)
今回は企画展「近代三島をつくった人々」第6章「交通の発達」で展示中の、一四代将軍徳川家茂の上洛風景を描いた浮世絵を紹介します。
14代将軍家茂は、攘夷(外敵を撃ち払って国内に入れないこと)の方法をみずから天皇に奏上するため、文久3年(1863)2月に上洛の途に着きました。
往路で東海道を用い、復路で海路を用いています。
徳川将軍による上洛は長らく行われておらず、家茂の上洛は3代家光以来、229年ぶりに実施されたものでした。
当時の人々にとってはまさに一大事といえる出来事です。
将軍家茂は、約3000人の行列を従えて2月13日に江戸を出立しました。
一行は、17日に箱根の山越えに臨み、箱根宿で昼休憩をとったのち、山中新田の宗閑寺で小休憩をとって三島宿に入っています。
三島宿では本陣、脇本陣、旅籠(はたご)にそれぞれ宿をとりました。
将軍家茂の宿泊先には、事前調査の結果、一の本陣である世古本陣(現在の本町交差点北西のパン屋辺りに所在)が選ばれています。
翌朝、三島宿を出立して吉原宿に泊まり、3月4日に京都に到着しました。
下の浮世絵は、このときの上洛をテーマとして描いた通称「御上洛東海道」という揃物の一枚で、三島宿通行時の様子を描いています。
当時の出版法令は徳川家に関する事象を扱うことを禁じていたため、画中には「東海道 三嶋」としか記されていません。
「御上洛東海道」という呼称はあくまで通称として使われているものです。
この揃物は、全160余枚から成る大作で、江戸の版元20以上が共同で企画し、歌川派の絵師総勢16名が参加しました。
三島を描いたこの一枚は、美人画や役者絵を得意とした三代歌川豊国(国貞)が担当しています。
画面を上下で二分割し、上半分に三島明神(現三嶋大社)の鳥居と東海道を進む行列の様子を、下半分に三島女郎衆の身支度の様子を描いています。
三島明神の鳥居の位置からして、京都を目指す行列は左から右に描かれなければならないはずですが、行列は右から左に向けて描かれており、構図設定上やむを得なかったものか、何らかの意図を含むものか、疑問の残るところです。
いずれにせよ、多くの版元・絵師が寄り集まって製作したこの大作から、229年ぶりとなる将軍上洛への、当時の人々の関心の高さがうかがえます。
三島宿に住む人々も、同じく並々ならぬ関心をもってこの一行を迎え入れたものと想像されます。
【広報みしま 平成30年12月1日号掲載記事】
14代将軍家茂は、攘夷(外敵を撃ち払って国内に入れないこと)の方法をみずから天皇に奏上するため、文久3年(1863)2月に上洛の途に着きました。
往路で東海道を用い、復路で海路を用いています。
徳川将軍による上洛は長らく行われておらず、家茂の上洛は3代家光以来、229年ぶりに実施されたものでした。
当時の人々にとってはまさに一大事といえる出来事です。
将軍家茂は、約3000人の行列を従えて2月13日に江戸を出立しました。
一行は、17日に箱根の山越えに臨み、箱根宿で昼休憩をとったのち、山中新田の宗閑寺で小休憩をとって三島宿に入っています。
三島宿では本陣、脇本陣、旅籠(はたご)にそれぞれ宿をとりました。
将軍家茂の宿泊先には、事前調査の結果、一の本陣である世古本陣(現在の本町交差点北西のパン屋辺りに所在)が選ばれています。
翌朝、三島宿を出立して吉原宿に泊まり、3月4日に京都に到着しました。
▲参考:世古本陣の門(現在は移築され、長円寺の門として残る)
下の浮世絵は、このときの上洛をテーマとして描いた通称「御上洛東海道」という揃物の一枚で、三島宿通行時の様子を描いています。
当時の出版法令は徳川家に関する事象を扱うことを禁じていたため、画中には「東海道 三嶋」としか記されていません。
「御上洛東海道」という呼称はあくまで通称として使われているものです。
▲御上洛東海道 三嶋
この揃物は、全160余枚から成る大作で、江戸の版元20以上が共同で企画し、歌川派の絵師総勢16名が参加しました。
三島を描いたこの一枚は、美人画や役者絵を得意とした三代歌川豊国(国貞)が担当しています。
画面を上下で二分割し、上半分に三島明神(現三嶋大社)の鳥居と東海道を進む行列の様子を、下半分に三島女郎衆の身支度の様子を描いています。
三島明神の鳥居の位置からして、京都を目指す行列は左から右に描かれなければならないはずですが、行列は右から左に向けて描かれており、構図設定上やむを得なかったものか、何らかの意図を含むものか、疑問の残るところです。
いずれにせよ、多くの版元・絵師が寄り集まって製作したこの大作から、229年ぶりとなる将軍上洛への、当時の人々の関心の高さがうかがえます。
三島宿に住む人々も、同じく並々ならぬ関心をもってこの一行を迎え入れたものと想像されます。
【広報みしま 平成30年12月1日号掲載記事】