(第375号)地域の歴史~千枚原~(令和元年8月1日号)
今回は千枚原地区にスポットをあて、縄文時代の遺跡にまつわるお話を紹介します。
千枚原は箱根西麓を源流とする大場川の支流である沢地川右岸の台地に位置しており、この台地上には、大字壱町田の小字から名付けられた「千枚原遺跡」が所在します。壱町田の一部が昭和38年の宅地造成によって住宅団地として発展した際、この地区を知名度の高かった千枚原遺跡にちなんで「千枚原」と名付けました。
この千枚原遺跡は、約一万年以上続いた縄文時代のさまざまな時期に幾度も繰り返して生活が営まれた場所です。縄文時代の三島における中心的な集落の一つでもあります。発掘調査は昭和23年(1948)及び昭和38年(1963)に行われ、約四千年前の住居跡17軒が発見されています。このうち特に特徴のある、床に石を敷いた「敷石住居(しきいしじゅうきょ)」2軒の跡地を保護するため、遺跡の一部は市指定史跡公園として保存されています。
元となった「千枚原」という地名そのものの由来については定かではありません。「千枚」は非常に多くの値を表し、「原」は平らで広い所や工作していない野原を意味するので、未耕作の野原がたくさんあったことから名づけられたものではないか…といわれています。
さて、新興住宅地である千枚原団地は、造成当初、そこに住む人々の心のよりどころとなる「ふるさと」、つまりは地域で積み上げてきた思い出や文化はまだありませんでした。外に故郷をもつ大人と違い、この場所で育っていく子どもたちにはそれがありません。この子どもたちにいつまでも心の支えになる故郷を作ろう、それが大人の責務である―そんな気運が住民たちの間に芽生え、藤岡武雄氏(元日本大学教授)を中心にさまざまな活動が始まりました。
この活動の一環として、静岡県東部を代表する縄文時代の遺跡である千枚原遺跡の石碑がふるさとのシンボルとして建立されました。昭和57年に史跡公園内に建立されたこの石碑は沢地の蜘蛛ヶ淵近くの川石を使い、文字は龍澤寺の鈴木宗忠老師に揮毫(きごう)してもらい、祈祷は三嶋大社にお願いしたそうです。
毎年七月末から八月初めの土曜日、先住の民の御霊を休め、住民の安寧を願う碑前祭が行われ、子どもたちはこの地域にまつわるお話を聞きます。それが終わると子ども神輿が町内を廻り、夕方には皆で千枚原音頭を踊る町内の夏祭りが始まります。
【広報みしま 令和元年8月1日号掲載記事】
千枚原は箱根西麓を源流とする大場川の支流である沢地川右岸の台地に位置しており、この台地上には、大字壱町田の小字から名付けられた「千枚原遺跡」が所在します。壱町田の一部が昭和38年の宅地造成によって住宅団地として発展した際、この地区を知名度の高かった千枚原遺跡にちなんで「千枚原」と名付けました。
この千枚原遺跡は、約一万年以上続いた縄文時代のさまざまな時期に幾度も繰り返して生活が営まれた場所です。縄文時代の三島における中心的な集落の一つでもあります。発掘調査は昭和23年(1948)及び昭和38年(1963)に行われ、約四千年前の住居跡17軒が発見されています。このうち特に特徴のある、床に石を敷いた「敷石住居(しきいしじゅうきょ)」2軒の跡地を保護するため、遺跡の一部は市指定史跡公園として保存されています。
元となった「千枚原」という地名そのものの由来については定かではありません。「千枚」は非常に多くの値を表し、「原」は平らで広い所や工作していない野原を意味するので、未耕作の野原がたくさんあったことから名づけられたものではないか…といわれています。
さて、新興住宅地である千枚原団地は、造成当初、そこに住む人々の心のよりどころとなる「ふるさと」、つまりは地域で積み上げてきた思い出や文化はまだありませんでした。外に故郷をもつ大人と違い、この場所で育っていく子どもたちにはそれがありません。この子どもたちにいつまでも心の支えになる故郷を作ろう、それが大人の責務である―そんな気運が住民たちの間に芽生え、藤岡武雄氏(元日本大学教授)を中心にさまざまな活動が始まりました。
この活動の一環として、静岡県東部を代表する縄文時代の遺跡である千枚原遺跡の石碑がふるさとのシンボルとして建立されました。昭和57年に史跡公園内に建立されたこの石碑は沢地の蜘蛛ヶ淵近くの川石を使い、文字は龍澤寺の鈴木宗忠老師に揮毫(きごう)してもらい、祈祷は三嶋大社にお願いしたそうです。
毎年七月末から八月初めの土曜日、先住の民の御霊を休め、住民の安寧を願う碑前祭が行われ、子どもたちはこの地域にまつわるお話を聞きます。それが終わると子ども神輿が町内を廻り、夕方には皆で千枚原音頭を踊る町内の夏祭りが始まります。
▲千枚原遺跡碑
【広報みしま 令和元年8月1日号掲載記事】