(第389号)河川水運と渡し場にまつわる伝承(令和2年10月1日号)

 今回は河川を利用した水運と中郷地域に伝わる伝承を紹介します。

 三島の南端、狩野川に合流する大場川の右岸に位置する安久では、奈良・平安期の遺跡である伊勢堰(いせせぎ)・箱根田(はこねだ)遺跡から河川を利用した輸送路が発見されています。駿河湾から狩野川、大場川や御殿川を利用し、伊豆国府に繋がる水運ネットワークの中間点に位置しており、物資の集積・積み替えを行う中継地、川の港「津」があったと考えられています。そのため、この地域では河川を利用した水運が発達していたことがうかがえます。

 さて、有力な交通路であった河川に面した集落には船着き場である「渡し場」が設けられていました。安久にも渡し場があったと言われており、「川崎(かわさき)の渡し場哀話(わたしばあいわ)」という古老の言い伝えが残っています。

 昔、小字名(こあざめい)川崎というところに渡し場がありました。川向こうの村人達は皆この渡し場を渡り、在庁道を通って三島の宿へ出ました。  
 ある時川向こうの「お大尽(だいじん)様」が重い病にかかり、その妻は三嶋大社に願をかけました。ある日 参拝の帰路、前日来の大雨で水かさが増し、流れの速くなった川崎の渡しにかかったところ、渡し舟は沈んでしまい、彼女は帰らぬ人となってしまいました。土地の人々は妻の立派な心根と哀れな最後に深く心を打たれ、供養塔を建てたということです。 

 この伝承に出てくる供養塔と言われているものが、安久の小字河崎(かわさき)村にあります。通称「六角地蔵」と呼ばれる諏訪神社の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。

 伊豆には川崎の渡しの伝承に酷似した「江尻(えじり)の渡し」という伝承が残っています。文治3年(1187)7月18日、仁田忠常(にったただつね/源頼朝に仕えた武士)のが、三嶋大社社参の帰途、江尻の渡しで水死した事故の話です。その年の正月、忠常が重病を患い、妻は三嶋大社に我が命を縮めても夫の命を救いたまえと祈っていました。この経緯を知っていた人々は、この水難は妻の祈りが聞き届けられたためではないか、誠に立派な妻であると称賛したそうです。この伝承は鎌倉幕府の編さんした歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記載があります。

 江戸時代の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』によれば、当時の狩野川は函南町柏谷と仁田の間を流れ、大場の南まで入り込んでおり、この江尻の渡しは大場南端付近にあったとされています。しかし、地形的に狩 野川が大場まで入り込んでいたことは考えにくく、江尻の渡しの正確な場所はわかっていません

 安久では江尻の渡しは川崎の渡しと同一の渡しなのではないかと考える人もいます。そのため、諏訪神社の六角地蔵は仁田忠常の妻の供養塔であるとも言われています。内容が酷似したふたつの伝承ですが、なにか関 わりがあるのかもしれませんね。

 諏訪神社の六角地蔵

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【広報みしま 令和2年10月1日号掲載記事】