(第388号)箱根山西麓 江戸時代の猪・鹿対策(令和2年9月1日号)
箱根山西麓では、古くから猪・鹿などの野生動物による農作物被害に頭を悩ませてきました。谷田村で作成された江戸時代の古文書には、猪・鹿が多く出没して作物を荒らすため、鉄砲・猪土手(ししどて)を使った対策を講じていることが記されています。
古文書によると、谷田村では18世紀半ばの段階で鉄砲を三挺所持していました。「猪鹿(しし)おどし鉄砲」と表現され、追い払う(威おどす)ことを目的とし、弾は込めずに音を鳴らす形で使用されています。鉄砲は17世紀以降山村などで広く普及し、鳥獣の被害がある土地では許可を得てこれを所持していました。
また古文書には、長さ二千間(けん)余(約3.6km)の「土手」を築いていたことも記されています。これは「猪土手」「猪久根(ししくね)」などと呼ばれるもので、害獣の侵入を防ぐために耕地周辺に築かれました。竹倉村で作成された古文書にも同様の記載が確認でき、同村には長さ千五百間(約2.7km)の「猪 鹿除(ししよけ)の土手」が築かれていたようです。
また鉄砲・猪土手以外にも、江戸時代には「猪穴(ししあな)」と呼ばれる対策がありました。これはエサを求めて耕作地を目指す害獣を捕獲するため、ケモノ道や猪土手沿いに掘られた落とし穴のことで、「猪落(ししお)とし」とも呼ばれます。なお日本では、古くから肉食を避ける、または禁止することが行われてきました。しかし禁制が出ていたからといって肉をまったく食べなかったわけではなく、猪穴などで捕獲されたものは食用に回されただろうと考えられます。
下の写真は、谷田の源平山(げんぺいやま)遺跡で発掘調査により見つかった猪土手と猪穴です。土手は尾根の稜線上にT字形に築かれており、高さは1.1~1.7m、総延長は140mほどあります。土手の北 側には土を盛るために掘られたであろう深さ5~10cmほどの溝と、18~29m間隔で設置された穴三基が検出されました。穴は径・深さともに3メートルほどあります。この遺構の正確な築造年代はわかっていませんが、谷田村の古文書に記された「土手」に対応するものである可能性が高く、江戸時代に築かれたものと推測されています。
現在も箱根山西麓には猪・鹿などの野生動物が多く生息しており、その被害は今なお少なくありません。これら野生動物による被害を防ぐとともに彼らとの共生を図るため、鳥獣保護管理法に基づき、捕獲許可を受けた期間・地区において銃器や罠を用いた捕獲が行われています。
古文書によると、谷田村では18世紀半ばの段階で鉄砲を三挺所持していました。「猪鹿(しし)おどし鉄砲」と表現され、追い払う(威おどす)ことを目的とし、弾は込めずに音を鳴らす形で使用されています。鉄砲は17世紀以降山村などで広く普及し、鳥獣の被害がある土地では許可を得てこれを所持していました。
また古文書には、長さ二千間(けん)余(約3.6km)の「土手」を築いていたことも記されています。これは「猪土手」「猪久根(ししくね)」などと呼ばれるもので、害獣の侵入を防ぐために耕地周辺に築かれました。竹倉村で作成された古文書にも同様の記載が確認でき、同村には長さ千五百間(約2.7km)の「猪 鹿除(ししよけ)の土手」が築かれていたようです。
また鉄砲・猪土手以外にも、江戸時代には「猪穴(ししあな)」と呼ばれる対策がありました。これはエサを求めて耕作地を目指す害獣を捕獲するため、ケモノ道や猪土手沿いに掘られた落とし穴のことで、「猪落(ししお)とし」とも呼ばれます。なお日本では、古くから肉食を避ける、または禁止することが行われてきました。しかし禁制が出ていたからといって肉をまったく食べなかったわけではなく、猪穴などで捕獲されたものは食用に回されただろうと考えられます。
下の写真は、谷田の源平山(げんぺいやま)遺跡で発掘調査により見つかった猪土手と猪穴です。土手は尾根の稜線上にT字形に築かれており、高さは1.1~1.7m、総延長は140mほどあります。土手の北 側には土を盛るために掘られたであろう深さ5~10cmほどの溝と、18~29m間隔で設置された穴三基が検出されました。穴は径・深さともに3メートルほどあります。この遺構の正確な築造年代はわかっていませんが、谷田村の古文書に記された「土手」に対応するものである可能性が高く、江戸時代に築かれたものと推測されています。
現在も箱根山西麓には猪・鹿などの野生動物が多く生息しており、その被害は今なお少なくありません。これら野生動物による被害を防ぐとともに彼らとの共生を図るため、鳥獣保護管理法に基づき、捕獲許可を受けた期間・地区において銃器や罠を用いた捕獲が行われています。
猪土手と猪穴/p>
【広報みしま 令和2年9月1日号掲載記事】