(第391号)地域の歴史 市山新田(令和2年12月1日号)
今回は箱根西麓に位置する五ヶ新田の一つ、市山新田(いちのやましんでん)についてご紹介します。
市山新田は箱根山の西坂、三ツ谷新田の西隣、塚原新田の東隣に位置しています。元和年間(1615~1624)に村として成立したといい、東海道を通行する旅人相手の商いが盛んでした。地名の由来について、江戸 時代成立の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』は、箱根路を登る際の最初(一/いち)の野山という意、と記しています。
そして、成立年は不明ながら、谷田村組戸長(こちょう)役場(明治17~22年)の罫紙(けいし)を使って書かれた「伊豆国君沢郡市山新田景況」という文書が残っています。これによれば、文書作成当時の市山新田は29戸から構成され、男性89名、女性80名が暮らしていたようです。
村の物産として特筆されているのは「胡羅葡(にんじん)」で、「質紅色、鮮にして味最好し」と評され、年間生産量は1万2千貫目(45トン)あり、県中・西部に出荷されています。当時は現在見られる短根種(三島人参)ではなく、長根種が作られていました。
さて、市山新田交差点の西側、東海道をやや北に入ったところに境妙山(きょうみょうさん)法善寺(ほうぜんじ)という日蓮宗のお寺があります。もともと現坂小学校の地に立地していましたが、明治36年に今の 場所に移りました。元禄6年(1693)、妙顕寺(みょうけんじ/京都における日蓮教団最初の寺院)第21世、玉沢妙法華寺第25世を勤めた僧侶、境妙院日宗が営んだ堂舎「玄収庵(げんしゅうあん)」がもととなり、跡を継いだ日躰の時に寺院として整備されたようです。
法善寺には、開創から二十年程を経た正徳2年(1712)、川原ヶ谷の鋳物師(いもじ)、沼上忠右衛門(ぬまがみ ちゅうえもん)信祐によって鋳造された喚鐘(かんしょう/法会の開始等を報せる小型の鐘)があります。この鐘は、実は一度、溶かされてしまう危機に瀕したことがありました。太平洋戦争の最中のことです。
戦時中、政府は銅・鉄資源の不足を補うため、一般家庭に日用品を、寺院には梵鐘(ぼんしょう)などの仏具を供出させました。市内でも多くの寺の鐘が失われ、法善寺の喚鐘も同じく回収されてしまいました。しかし同寺の喚鐘は沼津駅で貨車の積み込みを待っている間に終戦を迎えたため、この危機を免れることができた そうです。
戦後、空襲被害にあった沼津市では、消防署の望楼を再建したものの肝心の鐘がなく、物資倉庫の片隅で眠っていたこの鐘を見つけ、消防用の半鐘として使うようになったといいます。火事が起きるとこの鐘を打つのですが、音色が違ってどうにもしっくりこなかったようです。近くに住んでいた消防署長の家族が、この鐘を消防用に使うべきではないと訴え、署員が改めて確認したところ、刻まれた銘文から法善寺の喚鐘であることが判明しました。昭和38年に無事お寺へ返され、現在も仏事の際に用いられています。
【広報みしま 令和2年12月1日号掲載記事】
市山新田は箱根山の西坂、三ツ谷新田の西隣、塚原新田の東隣に位置しています。元和年間(1615~1624)に村として成立したといい、東海道を通行する旅人相手の商いが盛んでした。地名の由来について、江戸 時代成立の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』は、箱根路を登る際の最初(一/いち)の野山という意、と記しています。
そして、成立年は不明ながら、谷田村組戸長(こちょう)役場(明治17~22年)の罫紙(けいし)を使って書かれた「伊豆国君沢郡市山新田景況」という文書が残っています。これによれば、文書作成当時の市山新田は29戸から構成され、男性89名、女性80名が暮らしていたようです。
村の物産として特筆されているのは「胡羅葡(にんじん)」で、「質紅色、鮮にして味最好し」と評され、年間生産量は1万2千貫目(45トン)あり、県中・西部に出荷されています。当時は現在見られる短根種(三島人参)ではなく、長根種が作られていました。
さて、市山新田交差点の西側、東海道をやや北に入ったところに境妙山(きょうみょうさん)法善寺(ほうぜんじ)という日蓮宗のお寺があります。もともと現坂小学校の地に立地していましたが、明治36年に今の 場所に移りました。元禄6年(1693)、妙顕寺(みょうけんじ/京都における日蓮教団最初の寺院)第21世、玉沢妙法華寺第25世を勤めた僧侶、境妙院日宗が営んだ堂舎「玄収庵(げんしゅうあん)」がもととなり、跡を継いだ日躰の時に寺院として整備されたようです。
法善寺には、開創から二十年程を経た正徳2年(1712)、川原ヶ谷の鋳物師(いもじ)、沼上忠右衛門(ぬまがみ ちゅうえもん)信祐によって鋳造された喚鐘(かんしょう/法会の開始等を報せる小型の鐘)があります。この鐘は、実は一度、溶かされてしまう危機に瀕したことがありました。太平洋戦争の最中のことです。
戦時中、政府は銅・鉄資源の不足を補うため、一般家庭に日用品を、寺院には梵鐘(ぼんしょう)などの仏具を供出させました。市内でも多くの寺の鐘が失われ、法善寺の喚鐘も同じく回収されてしまいました。しかし同寺の喚鐘は沼津駅で貨車の積み込みを待っている間に終戦を迎えたため、この危機を免れることができた そうです。
戦後、空襲被害にあった沼津市では、消防署の望楼を再建したものの肝心の鐘がなく、物資倉庫の片隅で眠っていたこの鐘を見つけ、消防用の半鐘として使うようになったといいます。火事が起きるとこの鐘を打つのですが、音色が違ってどうにもしっくりこなかったようです。近くに住んでいた消防署長の家族が、この鐘を消防用に使うべきではないと訴え、署員が改めて確認したところ、刻まれた銘文から法善寺の喚鐘であることが判明しました。昭和38年に無事お寺へ返され、現在も仏事の際に用いられています。
法善寺の喚鐘
【広報みしま 令和2年12月1日号掲載記事】