明治時代(1868年~1912年)

明治維新により徳川幕府が倒れ、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府が成立すると、新政府は欧米列強に負けない強い国家の建設を目指して、中央集権的な国家づくりを進めました。産業・教育・軍事・行政・文化など様々な面で近代化・西洋化が進みました。
 三島市域では江戸時代に村役人・宿役人を勤めていた地域の有力者が中心となり、小学校設立、産業振興、鉄道敷設といった社会の近代化が進められました。

(1)酪農・牛乳生産・乳加工業

10明治 牛乳 三島の歴史用 10明治 練乳ラベル 三島の歴史用 10明治 練乳看板 三島の歴史用
左:豊牧社広告暦 明治23年(1890) 花島家文書
中央:金線ミルクラベル 大正時代 花島家文書
右:金鵄ミルク看板 大正時代ヵ  


 三島を含む北伊豆地域では、明治初期から仁田村(現函南町仁田)の旧名主、仁田大八郎や久保町(現中央町)で酒造業を営む花島兵右衛門らが中心となり、酪農、牛乳の生産、乳加工業が盛んになりました。
 豊牧社は乳牛の飼育と牛乳・バター等の販売を行っていました。牛乳は腐りやすかったため、缶詰の練乳が生産されるようになり、花島煉乳場では金線ミルク・金鵄ミルクといった商標で質のよい練乳を製造し、軍隊への納品や海外への輸出も行っていました。

(2)製糸業(生糸の生産)

10明治 製糸ラベル 三島の歴史用
生糸輸出用ラベル 明治30年頃(1897) 三嶋社座繰製糸

 生糸生産は幕末以来の重要な輸出産業でした。明治時代には伊豆地域でも養蚕(ようさん)や製糸業が発達しました。明治時代前半は糸枠をひとつずつ女工が廻す座繰式(ざくりしき)の製糸が中心でしたが、明治30年代以降、器械式の製糸場が設立されるようになりました。

(3)小学校の設立

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三島黌扁額 明治11年(1878) 三条実美書

 三島では明治4年に地元の有力者が協議し、吉原守拙らの学者を招き、「開心庠舎(かいしんしょうしゃ)」と呼ばれる小学校を設立しました。明治5年に学制が公布され、翌6年には開心庠舎が官立の小学校、三島黌(みしまこう、または、三島学校)となりました。この時期、市内には多くの小学校が生まれましたが、その多くは地元の有力者による私塾が母体となっていました。


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