(第426号)奈良の平城京に似た場所(令和5年12月1日号)
三島市には奈良平城京と似た場所があることをご存じでしょうか。それは、安久にある「箱根田遺跡(はこねだいせき)」という奈良~平安時代にかけての遺跡です。当時の役所や人工の水路などの遺稿(いこう)とともに、人面の描かれた墨書土器(ぼくしょどき)や木製の人形(ひとがた)などの遺物(いぶつ)が出土したことから、祭祀(さいし)の行われた場所として登録されています。
さて、平城京は中国にならい、条坊(じょうぼう)制に基づく「大極殿(だいごくでん)・朱雀大路(すざくおおじ)」を中心とした碁盤の目のような都市区画が形成されています。三島(古代伊豆国)でも条里制に基づき、平城京と同じような土地区画が展開していました。
平城京の羅城門(らじょうもん)は、条坊の中央部南端にあり、京内と京外を隔てていました。近くを流れる佐保川の発掘では、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)や人形(ひとがた)などが多く出土したため、平城京内に「穢(けが)れ」や「災い」が外から入らないように、「祓(はらえ)」の儀式が行われていたと考えられます。
平城京と比較すると、箱根田遺跡は、中央に水路(大溝)が斜めに掘られ、上流の夜臼を流していたようです。水量の少なさから船を浮かべた水運は考えにくい状況ですが、流路に一本橋を設営したと思われる杭列(くいれつ)が検出されていますので、正式報告では、物流の拠点である「津(つ:川の港)を想定しています。
水量が少ない水路を掘ったのは、この地で平城京を模した土地区画を計画したため、祓の川も同じ方向に掘削して同位置に設営したのではないでしょうか。水路からはダイナミックなタッチで描かれた人面墨書土器が多数出土しました。特に「罪官(ざいかん)」と呼ばれる「滅罪(めつざい)」を司る人の顔のようで資料価値は秀逸です。
このように、三島で行われた公的な行事や祭祀の位置関係、土地区画や水路などから、三島にも羅城門のような門があり、平城京と同じような地域が存在していたとも考えられます。箱根田遺跡の概略は、郷土資料館の展示物と解説で観ることができますので、当時の様子を知るとともに、人面墨書土器などの遺物をぜひご覧ください。
【広報みしま 令和5年12月1日号掲載】
さて、平城京は中国にならい、条坊(じょうぼう)制に基づく「大極殿(だいごくでん)・朱雀大路(すざくおおじ)」を中心とした碁盤の目のような都市区画が形成されています。三島(古代伊豆国)でも条里制に基づき、平城京と同じような土地区画が展開していました。
平城京の羅城門(らじょうもん)は、条坊の中央部南端にあり、京内と京外を隔てていました。近くを流れる佐保川の発掘では、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)や人形(ひとがた)などが多く出土したため、平城京内に「穢(けが)れ」や「災い」が外から入らないように、「祓(はらえ)」の儀式が行われていたと考えられます。
▲箱根田遺跡の位置
▲箱根田遺跡の全体
平城京と比較すると、箱根田遺跡は、中央に水路(大溝)が斜めに掘られ、上流の夜臼を流していたようです。水量の少なさから船を浮かべた水運は考えにくい状況ですが、流路に一本橋を設営したと思われる杭列(くいれつ)が検出されていますので、正式報告では、物流の拠点である「津(つ:川の港)を想定しています。
水量が少ない水路を掘ったのは、この地で平城京を模した土地区画を計画したため、祓の川も同じ方向に掘削して同位置に設営したのではないでしょうか。水路からはダイナミックなタッチで描かれた人面墨書土器が多数出土しました。特に「罪官(ざいかん)」と呼ばれる「滅罪(めつざい)」を司る人の顔のようで資料価値は秀逸です。
▲人面墨書土器
このように、三島で行われた公的な行事や祭祀の位置関係、土地区画や水路などから、三島にも羅城門のような門があり、平城京と同じような地域が存在していたとも考えられます。箱根田遺跡の概略は、郷土資料館の展示物と解説で観ることができますので、当時の様子を知るとともに、人面墨書土器などの遺物をぜひご覧ください。
【広報みしま 令和5年12月1日号掲載】