令和6年度広島市平和祈念式中学生派遣事業を実施しました

広島 表題
 三島市は、昭和34年12月21日市議会において「平和都市(核非武装)」を宣言し、平和都市実現のための事業を実施しています。
 
 この事業の一環として、平成7年度から市内の中学生を毎年8月6日の広島市平和祈念式に派遣しています。これは、三島の将来を担う若い人たちに戦争の悲惨さや平和の尊さについて再認識していただき、そこで感じた思いや経験を多くの人に伝えていただきたいためです。

 派遣事業では、平和祈念式への参列や広島平和記念資料館の見学のほか、原爆死没者慰霊碑献花台への献花、原爆の子の像へ折り鶴の奉納、平和の泉への献水、被爆体験講和への参加など、平和への思いを胸に深く刻み込みました。

 参加した8人の中学生が、広島市平和祈念式派遣事業を通して感じたことなどを紹介します。

錦田中学校 3年 松本 隼弥さん

広島1
 今年、大学に入った兄から、「広島は一度絶対に行った方が良い。」と言われました。それまでは私も広島のことは詳しくは知らず、教科書で習った程度でした。ですが、この兄の言葉が私が広島に行くきっかけとなりました。
 原爆の凄まじい爆発は、一瞬にして広島市民約14万人の命を奪い皮膚が焼け爛れた方や、手足がなくなった方々が元安川になだれ込みました。今、平和で静かに生きている私にとって、想像もつかない地獄だったと思います。
 初日に訪れた原爆資料館には、その事実を物語る絵や写真、遺品などが山程あり、私は胸が苦しく、張り裂けそうな気持ちになりました。二度とこのような惨劇を起こしてはいけない、毎日が平和であることに感謝して生きていこう、と改めて思いました。
 後日、記念式典の冒頭で広島市長が「皆さん、自国の安全保障には核戦力の強化が必要だという考えをどう思いますか。」という問いかけがなされました。私はこの言葉を自身の心に留め、資料館で見た辛い現実と準え、平和についてしっかり考えてみようと思います。どうしたら世界の人たちが平和に暮らしていけるのかと考えましたが、答えはまだ出ていません。
 広島市の皆さんが平和に暮らしていたこと。それがたった一つの原爆で一瞬にして失われてしまったこと。全て「現実」です。その「現実」を、現代に生きる私達は忘れそうになっています。ニュースでも、最近は戦争や地域紛争の出来事が頻繁に流れてきます。戦争や地域紛争をせずとも、平和に暮らしていく方法はあると思うのです。人と人との対話という手段を使って、武力を使わなければ、悲しむ人は出ず、亡くなる人も出ません。暴力や武力を使ってしまうと、悲しみや怒りといった負の感情しか生まれないことを自身の胸に秘め、私なりの「平和」というものを模索して生きていきたいと思います。

南中学校 3年 武藤 知真さん

広島5
 広島での研修を通して、僕の心に一番残ったものは被爆者の方のお話です。当時14歳だった梶本淑子さんは、爆心地から約2.3キロ離れた工場で働いていた時に被爆されたそうです。原爆が落ちた瞬間、「家族」の事が頭に浮かんだと仰っていました。そして何とか生き延びられたけれど、その後胃がんを発症してしまい、苦しみや悲しみが今日まで続いていたことを知りました。
 原爆が落ちてから今年で79年経ちますが、今でも原爆で被爆者の方々は苦しんでいます。その気持ちを考えると僕も心が苦しくなりました。
 原爆資料館では、たくさんの写真を見て、悲惨さを知ることができました。その中でも原爆で焼けてしまった人の写真が印象に残りました。こんな貴重な写真を見ることができたのは、写真が残っていたからです。僕は写真を実際に見た時に、この経験と写真たちは、世界中の人たちにとってもすごく大切なものだなと感じました。今回の研修を通して思ったことや感じたことを家族や友達にしっかり伝えていきたいと思いました。僕は原爆で辛い思いをした方々の気持ちを一生忘れません。こんなに良い経験ができたことを誇りに思います。平和祈念式典にも出席できて本当に良かったです。二日間ありがとうございました。

北中学校 3年 寺澤 愛結さん

広島2
『誰のためにもならない戦争』
 私は、広島平和記念資料館を訪れました。そこでは、一発の原子爆弾によって、人々の日常が一瞬にして変わってしまった悲惨な世界を目の当たりにし、今までに感じたことのない衝撃を受けました。被爆者が着ていた衣服、日記、発した言葉などに触れ、心が大きく痛みました。そして、過去の出来事としてそのまま終わらせてはいけないと痛感しました。広島市を実際に訪れたことで、原爆について、より理解を深めることができました。
 広島平和記念公園の石碑には「過ちは繰返しませぬから」と記されています。ですが、世界では広島に落とされた数千倍もの威力を持つ核兵器が、約一万五千ほどあると言われています。
 また、戦争による悲劇は繰り返されています。私は日本だけでなく世界の問題でもあることを改めて実感しました。
 これからの未来を作っていく私たち1人1人が戦争による悲惨な状況、原爆による広島の惨劇を知る必要があるはずです。このことを日本だけでなく、世界中に伝えていかなければならないと私は思います。現在日本には海外から多くの人が訪れています。一人でも多くの人に知ってもらう良い機会だと思います。
 平和な世界を作るため、家族や友達、そして世界中の人々が安心した生活を送るために、私は広島で起こった惨劇、被爆者たちの苦しみ、戦争の悲惨さ、平和の大切さを、声を大にして訴えていきます。

中郷中学校 3年 古屋 里穏さん

広島3
 1945年8月6日。今と変わらない鮮やかな日常が広がっていた広島は、一瞬にして失われました。一発の原子爆弾によって、無差別に容赦なく多くの尊き命が奪われ、街が崩壊したのです。凄まじい爆音と共に上空に閃光が走り、黒みがかった雲で街全体が包まれました。周りの人が目の前で焼けただれ、死んでいく。その光景はまさに地獄であり、助けを求める声、絶望の涙で埋め尽くされました。この当時はただ戦争に勝つことだけが考えられ、国民の生活はとても苦しいものでした。食糧が常に不足し、戦争をしたくなくても口を出すことができない。自分の命を犠牲とし、死にに行くことが正義であり誇られる社会。これらが当然視されていることにとても異常であると私は感じました。この異常な社会に対し、被爆者の方々は、二度と同じ時代に戻ってほしくないという強い願いを持っていられました。
 あの日から79年経った今、被爆者平均年齢は85歳になっています。実際に被爆された方がだんだんと少なくなっていくことで、当時の記憶が薄れていってしまいます。忘れられた記憶は繰り返される。この記憶は絶対に薄れさせてはいけません。これからの時代に、引き継いでいかなければならないのです。そのために私たちができることは、派遣事業を通じて感じたことをたくさんの人に伝え共有していくことだと思います。だから、家族や友達を通し、様々な人に戦争、平和について考えるきっかけを作っていきたいと思います。

北上中学校 1年 銀杏田 望さん

広島7
 初めて広島を訪れ、平和について様々なことを学びました。その中から2つのことを取り上げて書きます。 1つ目は原爆の教科書の中でしか知ることができない戦争原爆。恐ろしさです。
 最初は緑豊かな平和記念公園が本当に原爆の投下された町なのか実感がありませんでした。しかし、公園の下を掘り下げると、まだ人骨や、がれきが埋まっていること。記念資料館で、惨状を示す写真や資料の展示。原爆や戦争の悲惨さで目を覆いたくなり、胸が締めつけられるような思いでした。
 また被爆体験講話では、1945年8月6日、午前8時15分の一発の原子爆弾により、姿が地獄へと化しました。私は、被爆者である梶本さんからたくさんのお話を聞きました。梶本さんはまだまだ夢と希望に満ち溢れた14歳の時に被爆をしました。原爆や自身の辛さを語っている中で“友達”についてのお話がありました。友達の存在は強かったと、友達がいなかったら自分は何もできなかったという言葉に感銘を受けました。 なぜなら、“友達を助けないと”、“家族を放っておけない”といった一瞬の決断によってどれだけの人の命が救われたのだろうと考えると、賞賛したい気持ちが溢れだしたからです。
 2つ目は、平和を訴え続けることの大切さです。  まだ世界には約12,000発の核があります。私たちの住んでいる日本は、核の被害を受けた被爆国のうちの1つであるからこそ、様々な人へ発信できる、恒久平和の話を沢山持っています。なので私は、身近な人にでも話す義務があると感じています。できる限りたくさんの人に平和について話し、命を大切にしてほしいという願いを伝えていきます。

中郷西中学校 3年 山下 うのさん

広島6
 もし、私たちが楽しく友達と話し、家族と幸せに暮らしているこの三島に原爆が落とされてしまったら、どうなってしまうのだろうか。私は、想像することができません。大切な人や大切な日々をパッと一瞬にして、失うということは、どんな人でも耐えることができないと思います。私は、広島での2日間の研修を通して、世界の平和への想いを深め、心に刻み込むことができました。
 私が印象に残ったことは、平和記念資料館の見学と被爆者の方のお話です。平和記念資料館には当時の子供が楽しく遊んでいたであろう黒く焼けた三輪車や私たちと同じ歳の中学生が身につけ、学校に通っていたであろうボロボロの制服などの遺品が多く展示され、教科書でも取り上げられていた佐々木貞子さんが折った折り鶴なども当時のまま残されていました。実際の遺品や写真を見て、私たちがこんなにも恐怖や悲しさで苦しいのだから、当時の人々は何百倍も何千倍もの恐怖や悲しみで耐えられなかったのだろうと思うと本当に本当に心が痛みます。
 被爆者の方のお話では、梶本淑子さんがお話してくださりました。原爆が投下された79年前の1945年8月6日8時15分に広島の街は焼け野原になり、人々の自由や平和は一瞬にしてなくなりました。梶本さんは、「友達がいたから助かった。」と言っていました。血だらけになる友達を見るのが怖かったけれど、友達をみんなで助け、必死に逃げるしかなかったそうです。「もう2度と戻りたくない」という言葉には梶本さんの強い想いが感じられました。お話の中で私たちに2つのお願いをしてくださりました。「命を大切にすること」「一生懸命に生きること」です。私たちが、どんなに悲しくても、どんなに辛くても、命を守っていくことがこれからの世の中には必要なのだと思います。
 奪ってもいい、失ってもいい命など絶対にありません。今までの歴史を忘れて、辛い過去を繰り返してはならないのです。ウクライナ侵攻など世界各国で戦争が行われている今、広島での出来事から目を背けるのではなく、後世へと語り継いでいくこと、声をあげ、行動を起こすということが世界の平和につながるのだと私は思います。

山田中学校 3年 萩原 優奈さん

広島4
 私は今回の研修で、原爆の恐ろしさと平和の大切さを実感し、たくさんのことを学びました。この2日間は、平和について深く考える貴重な機会となりました。特に私の印象に残ったのは、広島平和記念資料館の見学と被爆体験講話です。
 資料館には多くの絵や写真、遺品などが展示されていました。その中には衝撃的な絵や写真がありました。火傷した皮膚が垂れ下がり、人々がゾンビのように歩く光景。あちこちに転がる変色した死体。全身が焼けただれ、性別もわからなくなった人の姿。まさに地獄のようでした。資料を通じて戦時下の惨状を目の当たりにし、私はとても痛ましくやるせない気持ちになりました。
 講話では、被爆者の梶本さんが当時の様相や平和への想いを語ってくださいました。実際に体験しただけあり、話や言葉の一つ一つが重く感じられました。お話を聞いたことで、かつて日本に原爆が落とされたのだということを再認識し、その被害の悲惨さを想像すると、自分のことのように胸が苦しくなりました。
 あの日から79年経った今も、戦争や核問題は存在し続けています。核兵器廃絶に向けて、国際的な取り組みが行われている一方、核兵器保有国は増加し、核の脅威は高まっています。被爆者の方々の意思を継承し、「真の世界平和」を実現するためには、現代に生きる私たちが、原爆そして戦争の非人道性を理解し、次代に伝えていくべきだと思います。まずは身近で小さなことからでも、自分にできる行動をしていきたいです。

日大三島中学校 2年 渡辺 愛菜さん

広島8
 第二次世界大戦という戦争の中働かないと日々を過ごすことができず、食事も十分に食べることができない状況の中で1945年8月6日に広島に原子爆弾が落とされました。広島原子爆弾では原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)から南東約160メートル、高度約600メートルの位置から相生橋に向けて原爆が落とされ落とされた場所から半径約5キロメートル圏内に火が燃え移り、半径約12キロメートル圏内が被害にあいました。
 そして私たちは落とされた場所から半径5キロメートルの工場で働いていた被爆者、樫本淑子さんの話をお聞きすることができました。そのお話の中で「そのときの広島は悪魔のようでみんなが燃え尽くされ、救助をして安全な場所まで運ぶのに死体を踏まなければならなかった。なのでこのようなことが2度起きないように命だけは大切にして」と仰っていた言葉に切なさを感じ、胸をうたれました。
 そして私の日常生活を見直すきっかけにもなりました。今までは暇があったらお菓子を食べてダラダラしながら携帯を眺めているということが多かったです。しかし、自分がやりたい勉強もできず美味しいご飯も食べれず死んでいく姿を想像すると、今までこの時間何をやっていたんだ、と後悔しました。この後悔が続かないように夢が叶えられなかった人たちの分まで自分の夢に向かって勉強をしていきたいです。そして、私がこの広島平和記念式に参加させていただき、学んだことをこれからも世界中に発信していけるような人間になりたいです。